引き続き露普です。
手の中の重み
少し温度を下げたシャワーを浴びると、顔の腫れがいくらか退いていた。洗面台の上に取り付けられた鏡を覗くと、なんとも無様な像が自分を見ていた。鼻の頭は赤いし、まぶたは重たげで普段より一層やぶにらみで目つきが悪い。白目に至っては病的なくらい充血している。なんだこのオモシロ顔。プロイセンは口角をゆがめた。
バスタオルはとてもではないが使い物にならないので、比較的布の面積の大きいバスローブで髪をがしがしと無造作に拭き、体表の水滴を適当に吸わせる。
「う〜、着替えがこれしかないって最悪……なんか調達してこりゃよかった」
もう一度スーツだのワイシャツだのに袖を通す気にはなれないが、さりとて替えの服といったらロシアが用意した趣味の悪いマトリョーシカ柄の開襟シャツと、スウェットが一枚だけ。しかもシャツのほうは、ゆうべ手洗いしたあと窓辺に干してそれきりだったため、皺がひどい。結局彼はスウェットだけを穿くと、空調も効いていることだし、上半身裸のままでいいかと考えた。
部屋ではロシアがフランス語の番組を見ていた。ニュースかと思いきや、テレビショッピングだった。しかアクセサリ通販だ。首と胸元だけのマネキンや、肘から先だけのマネキンに、貴金属の装飾品が掛けられている。と、販売促進に意気込む女性スタッフが、銀色のチェーンを大事そうに両手で掲げ、満面の笑顔で視聴者にアピールをしてきた。営業スマイルとわかっていても魅力的な表情だ。
ベラルーシにまた何か贈りつける気だろうか。ロシアの趣味では彼女の美貌を活かしきったコーディネイトは望めないのでもったいないと常々思っているプロイセンだったが、怖いので口にしたことはない。まして、俺に任せてみろなんてとてもではないが言えない。まあ、本人たちの美的感覚にマッチするならそれでいいのかもしれないが、彼にはいまいち理解できなかった。もっとも、いま視聴しているのはフランスのメーカーの商品なので、けっこういい線を行く可能性はある。
プロイセンがハンガリーやらベラルーシやらの容姿を使ってちょっぴり楽しい空想――多分まだ健全――に耽っていると、テレビのボリュームを下げたロシアが振り返ってきた。プロイセンはあからさまにぎくっと首をすくめた。やばい、頭ん中見られた? そんなはずはないとわかりつつ、こいつならあり得るかも、と思ってちょっと後ろめたくなる。いや、頭の中で考えるだけなら自由なのだが。
「すっきりしたようだね」
「……あ、ああ」
すっきりしすぎて妄想を楽しむ余裕さえ出てきました、とはさすがに白状できず、適当に返事をした。
「まあ、あれだけ泣けばな」
「落ち着いたようでよかったよ」
プロイセンはベッドの縁に座ると、いまさらながら自分の数々の醜態が思い出され、急に気恥ずかしくなった。頭が冷えたら麻痺していた感情も元に戻り、回想とともに羞恥が生じてくる。
失態の記憶に耐えられなくなり、あー、とか、うー、とか意味不明の低いうめき声を立てながら、彼は膝に腕を立てて頭を抱え込んだ。
ロシアは彼が何を思っているのか推察し、励ますようにぽんと肩に手を乗せると少しからかった。
「大丈夫。きみの恥ずかしいとこはだいたい見て知ってるから、いまさら恥じ入るのは無意味だよ」
「そういうこと言うんじぇねえ。へこむだろ」
「さっき自分で言ったじゃない」
「自己申告と他人に言われるのとじゃ、受け取り方が違うんだよ」
プロイセンはむっと唇を曲げると、不貞腐れてそっぽを向いてしまった。ロシアはやれやれと彼の横顔を眺めた。
「せっかくいろいろ演説かましてくれたところ悪いんだけど――」
と、特に抑揚に変化もつけずしゃべり出す。
「きみが彼を本当に困らせるようなことはしないってことくらい、とっくの昔からわかってるんだよね。きみは僕のうちから出て行こうとはしないよ。それこそいろいろ問題起きちゃうからね。だから、うん、そのへんは心配してないよ。僕はきみの彼に対する愛情をそれなりに知ってるし、信じてるからね、きみが彼を大事に思っている以上、僕としては安心というわけ」
プロイセンは数秒、いや、数十秒、ぽかんとしていた。
なんだかとてつもなく恥ずかしいことを言われたような気がする。しかも、すごくさらりと。天気予報どころか時報並みのあっさり風味で。
ロシアの言葉の意味がじわじわと思考に浸透してくる。そしてそれに比例して、感情が高揚する。
せっかく治まったというのに、またしても顔に熱が昇ってくるのがわかった。プロイセンは手の平で口元を覆うと、視線を横にそらした。ロシアの清朗とした笑顔が妙にまぶしい。
「なんつー重たい信頼感だよ……」
「ふふふふ。まあそう言わず、期待に応えてよ」
ロシアはテーブルに肘をついて顔をこちらに向けたまま、ばちんと片目を瞑って見せた。なんだか無性にむかついてならない。プロイセンはぎろりと彼を見た。
「……それはそうと、おまえウインク下手すぎ」
悪態をひとつつくと、彼は体ごと明後日のほうを向いた。ああ、もう、何もかもが恥ずかしい。目を閉じて、掻き乱された思考を落ち着けようと試みる。
結局全部こいつの手の上で踊らされてたんじゃねえか。プロイセンは腹立たしさと、もうひとつ、別の感情に心拍を上げられた。その正体の察しはついているが、いますぐ認めるのは癪だったので、考えるのはやめた。
と、ふいに手を掴まれる。
はっとして開眼すると、いつの間にか左手が手の平を上に開かれ、その上にロシアの軽く握った拳が置かれていた。
プロイセンは怪訝な面持ちでロシアの顔を見た。相変わらずにこやかで読めない表情だ。
ロシアの手が少し緩められると、プロイセンは手の平に固い感触とわずかな重みを感じた。相手の腕が引かれ、自分の手の平に落とされたものが見える。そこに置かれていたものに、プロイセンは驚いた。
ひどく懐かしいかたちが、そこにはあった。
「これは……」
彼の出自を表すシンボル。かつては肌身離さず首に掛けていたそれ。もう目にしなくなって久しかった、けれども忘れられない色と形状、そして感触。
金属製の表面についた無数の細かい傷と酸化の具合から、新品でないのは明白だ。彼はなかば夢を見ているような心持ちでそのシンボルをしげしげと眺めた。と、表の彫刻を見て目を見開く。
「あのとき……俺が差し出したやつか」
胸に痛みと苦みがよみがえる。失った――手放してしまった大切なもの。もう永久に喪失し、戻ることはないと思っていた。それがいま、自分の手の中にある。これは本当に夢か、でなきゃ幻なんじゃないか? 疑いながらも、手の平に加わる重みが生々しくてならない。
「まだ取ってあったのか……」
切ないほどの懐かしさに胸を締め付けられ、彼は目を細めてそれを見つめた。またこの手に掴むことがあるなんて。
放っておくとまた泣き出しかねないプロイセンを、ロシアの声が現実に引き戻す。
「捨てられたと思ってた?」
「ああ……まあ」
「チェーンは劣化してぼろぼろだったから、取っちゃったけどね」
ネックレスの部分はすでになく、ペンダントヘッドだけが残っている。だが、これこそが本体であり、彼の証だ。
まだ信じられない気持ちだった。しかし、嬉しさもあるが不安もよぎる。
「なんで、いまになって……ってか、これはやばいだろ。まずいって」
おまえだってそう判断したから俺からこれを取り上げたんだろう。
急に戻ってきたかつての自分のシンボルにプロイセンは動揺し、思わず突き返すようにしてロシアのほうに手を向ける。
「骨董品だよ」
ロシアは受け取ろうとはしない。返された、と解釈していいのだろうか。プロイセンはおずおずと手を引っ込めると、今度は右の手の平にそれを乗せて、改めて見下ろした。
溢れてくる追懐の情に圧倒されながらも、彼はここ数日の出来事を思い返した。そして、ああ、とひとりうなずく。
「……そういうことか」
「うん?」
ロシアはちょっと首を傾げて、つり上がったプロイセンの目を見た。
「待ってたんだろ。俺が自分に決着つけるの」
「大人の事情ってやつだよ」
肩をすくめるロシア。にやりともしない。いつもどおりのさわやかな笑顔だ。
――どうやら俺は盛大に読み違えていたらしい。いや、それすらもこいつのシナリオの範疇か?
プロイセンは悪態のひとつもついてやりたかったが、生憎毒気を抜かれてしまったので、脱力してベッドに寝転ぶくらいしかできなかった。けれども、半世紀の時を経て主のもとへ戻ってきた思い出の品を握り締める力は緩めない。
彼は横向きになると、手の中に収まるそれを大事そうに見つめ続けていた。飽きもせず、何分も同じ姿勢で。と、ふいに側頭部に軽い圧を感じる。わずかに首をひねると、ロシアがすぐ後ろに座って、撫でるように頭を触っている。ちょっと驚いたふうなプロイセンの顔を、ロシアは興味深そうに覗き込んだ。マットレスが揺れたことにすら気づかないなんて、どれだけ没頭していたというのか。
ロシアは彼の横髪を指先で一房摘むと、
「髪くらい乾かせば?」
まだいくらか水分の残る頭髪をぱらぱらと落としていった。
「めんどくせえ。短いからじきに乾く」
「シーツ濡れるよ」
「いまさらだ」
プロイセンは無造作に髪の毛を掻き上げながら、ころんと仰向けになった。まだこめかみから額にかけて鈍い頭痛の余韻があるが、気分は悪くなかった。
→新しい旅路
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