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愛に時間を


 頭がひどく重い。鉛でも圧し掛かっているようだ。
 夢の記憶はないが、目覚めの気分としては最低の部類に違いない。
 それでも、窓から差し込む朝の陽光を感じたドイツは、そろそろとまぶたを持ち上げた。が、いつもより粘膜がねっとりとして、眼球に張り付いてしまっているかのような抵抗がある。目頭をこすると、涙がからからに乾いた痕跡を感じた。泣き疲れて眠ってしまったなんて、いつ以来だろうか。
 ぼんやりする視界をのろのろ動かしながら目覚まし時計を探す。が、見当たらない。というか、寝台のそばに置いてあるはずのテーブルがない。どうしたことかと天井を見ると、寝室のパネルではなかった。そこで思い出す。明け方までダイニングのテーブルに突っ伏していたら二階まで上がる気力がすっかり失せ、リビングのソファで横になり、それからまたぐすぐすと年甲斐もなく嗚咽を漏らしはじめて……その先の記憶は途切れているが、きっとそのまま寝付いてしまったのだろう。
「……つっ!」
 体を起こし、頭位を変換すると途端に強い鈍痛がこめかみから頭頂部にかけて走る。ドイツは眉間に皺を寄せてしばらく耐えた。が、治まる気配はない。これは鎮痛剤の世話になったほうがいいかもしれない。彼は額に片手を当てたまま、立ち上がった。そのままいつもの癖で前髪を上げるが、乾ききっているせいか、すぐに降りてきてしまった。
 時計を見ると、正午に近かった。夜更かししていたというのもあるが、こんな時間まで寝ていたなんて珍しい。カーテンを引き、窓を開けると、まもなく南中に差し掛かる太陽の光がまぶしかった。羞明に襲われ、頭痛とともに眩暈が起きる。ドイツは差し込む陽光から逃げるようにふらふらと後退し、ダイニングへと向かった。
 食欲はないが、空きっ腹に痛み止めを放り込むのもまずいと思い、牛乳をコップに注ぐ。冷えた液体が喉を通過する感覚が心地よい。けれども気分は晴れなかった。いや、覚醒が安定するほど昨日の出来事が鮮明に脳内で再生され、ますます憂鬱になる。
 あれは本当に現実の出来事だったのだろうか。彼が自分の前に現れたこと自体、幻だったのではないか。
 すべてを夢に帰したい気持ちで、ドイツは深々とため息をついた。彼にさよならを告げたというのが、自分のことながら信じがたかった。いや、信じたくなかった。
 もう会えないのか。半世紀越しに生存と居所がわかったのに。
 牛乳パックを冷蔵庫に仕舞い、扉をパタンと閉めると、ドイツはその場に立ち尽くしたまま物思いに沈んだ。目を閉じれば、彼の姿ばかりが浮かんだ。懐かしい仕種から、はじめてみる表情まで。
 朝から気が滅入って仕方がない。いっそ不貞寝でもしてみるか、と顔を上げかけたそのとき。
「だ〜れだ!」
「うわ!?」
 調子外れの明るい声とともに。
 いきなり、本当に唐突に、重心が崩れた。
 首に何かが巻きつき両目を塞がれた直後、後方にかなりの重量が掛かり、それに引きずられるかたちでドイツは床に倒れ込んだ。あまりに突然のことだったので受身など取るに取れず、彼はしたたかに肩や背中を床に打ち付けた――はずなのだが。
 思ったほど衝撃がない。昨日プロイセンに殴られ吹っ飛ばされたときにできた軽い打身があるので、もっと痛みが走りそうなものなのだが、それもない。というか、床の固くて平らな感触がない。なんだこの、ちょっと柔らかくてでこぼこしたものは。
 まだ回りきらない頭でドイツが考えていると、ぐいっと肩を押され強制的に上半身を起こされた。彼はそこではっとした――侵入者か!?
 反射的に振り返ると、真後ろに色の薄い金髪。
「ちょ、おまえ、危ないじゃん、しっかり支えろよ。ってか、重いだろーが。早くどけ。体重差考えろよ」
 耳に慣れた声。よく知った顔。
 プロイセン。
 見間違えるはずもないが、こんなところにいるはずもない人物の顔を間近でとらえ、ドイツは混乱した。
「え、え、ええっ……?」
「よー、おはよ。って、時間でもねえか。でもおまえ寝起きっぽいし、別にいいよな。なんだ、景気悪ぃツラしてんなー。低血圧か?」
 一緒に暮らしていた頃と寸分違わぬマイペースな口調で、無礼な挨拶をしてくるプロイセン。ドイツの混乱に拍車が掛かる。
「え、ちょっ、え、おまえ、えぇ……な、なんで……」
「いいから早くどけって。重いんだよ」
 指摘されてようやく気づく。ドイツは、床に仰向けでこけているプロイセンの体の上で座っていた。しかし、なぜこんなことになっているのか。いや、プロイセンが背後からいきなり抱きついてきたせいだろうが……そんな状況になる経緯がまったくわからない。
 もはやパニック寸前のドイツだったが、プロイセンに促されるまま、とりあえず体をどけてやった。ふーっ、と息をつくと、プロイセンは身を起こして床に胡坐をかいた。
「おまえさあ、リビングの窓あけっぱだったぜ? 無用心じゃん、気をつけろよ」
 文脈に即さないお説教。ドイツは口をぱくぱくさせながら、なんとかひとつの疑問詞を絞り出す。
「な、なぜ……」
 すると、プロイセンはその質問を待ってましたとばかりに顔を輝かせると、不敵に笑った。
「ははははは、遊びに来てやったぜ。久しぶりなんだ、歓迎しろよ! お勤めで疲れた体で夜行バス乗って、遠路はるばるここまで来たんだからよ。あ、服おまえの借りたから。箪笥に仕舞ってあったやつ。いやー、さすがにマトリョーシカはもうたくさんでよー。バスで隣だったやつにすげぇ顔されたし」
 彼は自分の着ている服をびしっと親指で指した。無地の黒いTシャツにアーミーパンツ。どちらもドイツの衣類だ。プロイセンにはややサイズが大きく、ズボンのほうは完全に裾を引きずっている。しかし、本人は至って満足げだ。
 ……ということは何か。リビングから侵入したあと、二階に上がって俺の寝室の箪笥を勝手に漁り、ばっちり着替えてからここまで来てあまつさえ背後から奇襲をかけたということか。そういうことなのか。ちょっと盗人猛々しいんじゃないか。
 ドイツは胸中でそう突っ込んだものの、声に乗せたのは別の言葉だった。
「き……昨日のあれはなんだったんだ!?」
 もう会わないと、これでさよならだと、言っていたのに!
 昨日の今日でまた顔を合わすなんて、あの時間の意味はいったいなんだったんだ。いや、会えたのは嬉しいが、素直に喜べる心境でもない。まずはこの不可解な状況を説明しろ。
 まくし立てたい気持ちでいっぱいのドイツだったが、脳内の情報処理が追いつかず、ただ口を開閉させるばかりだ。
 プロイセンは、すっとぼけるというにはあまりに自然な態度できょとんとしたまま、
「え? 昨日? ああ、あのときの言葉か? やっだ、おまえあれ真に受けてたのかよ! ははは! 俺が本気であんなおセンチなこと言うわけねえじゃん!」
 むかつくことこの上ない台詞を返してきた。実に悪い笑顔だ。しかし輝いている。
「なっ……」
 驚愕と困惑に目を見開くドイツに、プロイセンは自分が優位に立っていることの気持ちよさに酔う。
「ははははは! おまえ、まだまだ俺のことわかってないなー。それに、ちょっと考えればおかしいってわかるだろ? 俺んちいますっげヤバくて周囲に協力要請しなきゃならねえくらいなのに、わざわざおまえと手ぇ切るいわれなんざねえじゃん。まあ、素直なのはかわいいけどさあ、そんなんじゃ生きづらいぜ? ったく、なんだよ、あんなにしょげちまってよー、後ろ姿からしてどんよりしてたぜ? 俺にさよなら言われてそんなに悲しかったのかよ。全身からものすごいブルーオーラ出てたぞ」
「お、俺がどれだけ……」
 あまりに身勝手なプロイセンの言葉に、ドイツは両の拳を握り締め、肩を怒らせふるふると震える。しかしプロイセンは一方的に話し続ける。
「だいたい、あんな言葉素直に受け取っちまうなんて、おまえ、俺の愛を信じてない証拠だぞ? まあ、この俺の迫真の演技にコロッと騙されちまうのも無理はねえけどさ。でも、俺がそうあっさりとおまえのこと――――っぐ!?」
 べらべらとやかましい彼のマシンガントークは、ひしゃげた苦悶のうめきとともに終わりを告げた。
 理由は簡単。ドイツの拳が彼のみぞおちに埋まったからだ。
 たいした音はしなかった。しかし、内臓から伝わるすさまじい衝撃と痛み。
 プロイセンは数秒呼吸が止まった。
 やがて呼気から再開すると、苦痛をやり過ごそうと浅い息を繰り返す。しかし、それにしたって苦しい。見事に人体の急所に極まった。てめえ、昨日俺が殴ったの根に持ってんのか。俺はちゃんと手加減してやっただろうが。
 そんな文句が次々浮かぶが、苦しくて言葉にはならない。
「がは……っ、て、てめ、何を……」
 ちょっぴり涙をにじませながらプロイセンがうめくと。
「報いを受けろ、この人でなし! 俺が、俺がゆうべどれだけ――」
 ドイツが声を荒げた。が、すぐに尻すぼみになってしまう。
 昨晩の出来事が感情とともに脳裏によみがえり、言葉も声も出なくなる。まだ何の整理もついていなかったのだ、自分の気持ちに。そして、整理をつける前に事態が思わぬ方向に転がったのだから、もう頭の中はぐしゃぐしゃだ。
 言いたいことは山ほどあるのに、いざ何か言ってやろうと思うと、詰まってしまう。
 なんだか困っている様子のドイツを訝り、プロイセンが顔を近づける。
「ゆうべ? ん?」
「……い、いや、なんでもない」
 鼻先数センチまで急接近してきたプロイセンに驚き、ドイツは慌てて顔を横に向けた。まだ鏡で確認していないが、きっとひどい顔をしているだろう。
 予想は的中したようで、眼前でプロイセンがにんまりと口角をつり上げるのが、憎たらしいほどはっきりと見てとれた。
「なんだ、おまえ、もしかして一晩泣き明かしたのかぁ?」
「い……いい年してそんなわけないだろう。そっちの希望的観測なんじゃないか?」
 嫌がらせのように顔を寄せ、じろじろと眺め回してくるプロイセン。ドイツは、やめろとばかりに彼の顔を手の平で押した。
「へえ? 目ぇ充血させてまぶた腫らしてるやつがそれ言うか? ん?」
 プロイセンは嫌がって顔を背けるドイツに手を伸ばすと、親指で目元に触れた。
 しまった、まだ顔を洗っていない。わずかだが塩分がこびりついている。
「お、なんだ、まぶた熱いじゃん。泣きすぎてお熱なんてガキみてぇだな。ははは、まだまだかわいいもんじゃねえか」
 ドイツがいやいやをするように首を振るのが珍しくておもしろいらしく、プロイセンはますます調子に乗ってからかってくる。降りていた前髪を強引に上げ、目元と額をさらさせる。
「く……」
 指摘されていることが事実なだけに反論できず、ドイツは悔しげに奥歯を噛んだ。
 プロイセンとしては子供をかわいがるような感覚だったのだが、そういえば相手はもう大人だった。確かにこれは屈辱的かもしれない。やっぱりすぐには頭を切り替えられないな、と彼は自分に苦笑した。
 彼はぱっとドイツの顔から手を放してやると、
「悪かった、悪かったって。そんな悔しそうな顔すんなよ。なんか余計いじめたくなるじゃん。いやあ、しばらく会ってなかったことだし、俺のこと忘れてたらヤだなあと思ってさ、おまえの愛を確かめたくてよー、つい意地悪なことしちまったってわけ。はは、まさかあんなに見事におまえがハマるとは思わなくてよー、ぷふふ……いやまじでごめんな!」
 ドイツの両肩を左右の手でぱんぱんと叩きながら、プロイセンは軽い調子で謝った。まったく謝罪されている気がしない。なにしろ包み隠さず笑っているのだ。
「そっ、そんな疑いのためにあんな嘘をついたのか!? そっちこそ、やっぱり俺を信じていないだろう。……忘れられるものなら、とっくに忘れていた」
 あんな心臓に悪い試し方をするな! とドイツは両手を戦慄かせた。けれどもプロイセンはからからと笑うばかりだ。
「許せって。愛ゆえの試練だ」
 プロイセンはドイツの前髪を避けると、額に軽い口づけを落として親愛の情を表した。
「まったく……」
 そこまで開き直られると、もう怒るのもばからしくなってくる。ドイツはもはや呆れの境地で息をついた。いまだ額に感じる彼の体温が嬉しいのは事実だけれど。


いとしくて

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