text


準備作業


 作業も大詰めになった本番前日、機材置き場で当面使用する予定のない収納物品の整理に当たっていたドイツは、ドアの外側にふらつく影の気配を察した。嫌な予感がして足早に物置の扉を開き廊下へ足を踏み出そうとした瞬間、
「あ、ドイツー、この椅子すっげ重いよー。俺潰れそう――って、うわぁ!?」
 折りたたみ式の椅子を三、四台脇に抱えたイタリアが、ドアの前で足をもつれさせ、盛大な音量をフロア中に響かせた。
「ヴェ〜……」
 椅子は床に散らばったものの、イタリア本人はドイツに体を支えられたので、転倒することはなかった。ドイツは彼の腕を引っ張って姿勢を起こさせると、
「気をつけろ。横着をするな。重いなら分割して運ぶなり、荷台を使うなりしろ」
 立て続けに忠告を浴びせた。しかし当のイタリアは、足の小指に椅子がぶつかったのか、涙目でケンケンと片足跳びをするばかりだった。
「うー、ドイツ……そーいうのは一回につき一個にして。俺忘れちゃうよー」
「あー、わかったわかった」
 まだ靴のつま先を押さえているイタリアの横で、ドイツは散乱した折りたたみ椅子の回収に取り掛かった。楽々と両脇に抱えた彼を見て、イタリアがもう涙を引っ込めてぱちぱちと拍手をする。
「おー、さすがドイツ! 力持ち!」
「はあ……なんでおまえが力仕事担当なんだ。男女で振り分けたわけでもないだろうに」
 こいつに重労働させたら逆に周りの仕事が増えるだろうが。ドイツはため息をつくが、悲しいかな、こういう事態にはもはや慣れっこなので、特に腹も立たない。むしろ、積極的に手伝ってしまうくらいだ。
「ローテーション表見たらそうなってたんだよ」
「平等な役割分担もけっこうだが、効率性も考慮すべきだな……。で、どこに運ぶんだ?」
 手を貸そうとしている自分になんら疑問を覚えることなく、空気のような当たり前さで、ドイツは尋ねた。
「えーとね、控え室だってさ」
 イタリアは、自分に割り振られた仕事だという意識をかろうじて保っているらしく、ドイツから一台だけ椅子を受け取った。折りたたみ式とはいえ、パイプ椅子とは違い、それなりに高価なオフィス向けのものなので、見た目より重量があった。
 エレベーターが点検中なので、目的地までは階段を使用するしかなかった。ドイツは、三つ目の踊り場で早くもひいこら言っているイタリアを激励しつつ、すたすたと階上へと向かっていった。
「ドイツー、もっとゆっくりー!」
 控え室のある階に辿り着く頃には、イタリアはドイツから十歩ほど遅れていた。と、通路の真ん中ほどでドイツがおもむろに振り返った。
「おい、控え室といっても、ここ一帯そのために割り当てられてるんじゃなかったか? どの部屋に運べばいいんだ?」
「え? どの部屋?……うーん、どこだったっけ?」
 イタリアは疑問符を浮かべながら首を傾げた。ドイツは苦々しくぼやく。
「……ちゃんと確認してから運べ。なんとなくこんなオチがつくような気がしていたが」
「とりあえず適当に置いとけばいいんじゃない? まだ運ぶものあるからさ、今度確認してくれば問題ないって!」
「仕方ない、そうするか」
 ドイツは、片手が空いていたらイタリアの額をどつきたい気分になりながら、手近な部屋の扉を肩で押して開けて中に入った。
 と、入り口から一歩進んだところで彼は立ち止まった。あとに続こうとしたイタリアは、ドイツの背にぶつかった。
「どうしたんだよ、ドイツ?」
 見上げると、ドイツが不思議そうに部屋の中心部を眺めているのがわかった。その視線の先には――
「トランク? いやにでかいな……いったい誰の持ち物だ?」
 一台のキャスターつきトランクがあった。しかも、かなり大きい。一週間分の旅行荷物を詰め込んでもまだ余裕のありそうな容量だ。
「こんなところにあるとは……業者の配送ミスか?」
 会場周辺に並ぶホテルだったらともかく、会場そのものにあるのは不自然な代物である。
 不審に思いながらも、とりあえず第一の目的を果たそうと、ドイツは壁に折りたたみ椅子を立てかけた。そして、改めて振り返ろうとしたところで、
「ひっ! ド、ドイツ、いまなんか動いた!」
 イタリアの上擦った声とともに、再び椅子が床を叩く音を聞いた。驚いた彼は椅子から手を離すと、ドイツにしがみついたのだった。階下に音が響いたかもしれないと頭の片隅で考えつつ、ドイツは二の腕に巻きついてくるイタリアを見下ろした。
「動いた?」
「そ、そのトランク……」
 イタリアは、人差し指をぶるぶると震わせながら、部屋の真ん中にどかりと安置された荷物を指した。
 ふたりして何十秒か凝視したが、特に異状はない。しかし、危険察知と逃亡能力に長けたイタリアの弁を気のせいだと切り捨てるのも乱暴に思われ、ドイツは表情を険しくした。
「まさか危険物か?……イタリア、一旦出るぞ」
「う、うん……」
 ドイツはかばうようにイタリアの両肩を手で掴むと、その背を押して部屋の外に出した。背後のトランクに警戒を向けながら。

*****

 イタリアの背を抱いたまま階段を下ると、給湯機器の集まるエリアで、白い三角巾を頭に巻いた男を見かけた。
「フランス」
 ドイツは、イタリアをつれてフランスのそばに寄った。フランスはふたりの様子を見て、露骨に不愉快そうな顔をする。
「どうしたよ。見せつけに来たんなら帰れ、冷やかしはいらん。こっちは忙しいんだ」
 仲良さげに手を取り合っている彼らをやっかむように、しっしっと手の甲を相手に向けて振る。が、ドイツは真剣なまなざしで告げた。
「いや、少々緊急事態かもしれない。付き合え」
「なんだ、いきなり? ってか、こっちもこっちでけっこう緊急事態なんだが。イギリスの野郎が給湯管理の担当に当たってな。変な気起こして菓子づくりはじめやしないか、冷や冷やもんだ。あのローテーション表、見直したほうがいいよな」
「その意見には賛成だし、この現況もけっこうな懸案事項だと思うが……優先順位はこちらが先だ。来い。イギリスの件については、明日の会議で出される食い物に手をつけないよう、ひそかに事前アナウンスすれば済む」
 ドイツはフランスの手首を掴んで廊下に引っ張り出した。
「なんだよ、強引に」
 フランスが不服そうに唇を尖らせる。が、ドイツの注意は別の方向はすでに別の方向に向けられていた。階段からなぜか楽譜の束を携えて降りてきたオーストリアを捕まえる。
「オーストリア、すまないがイタリアを頼む。野暮用ができた」
「え、ええ……いいですけど、いったいどうしました?」
「ドイツ、どうしたのさ?」
 さすがに怪訝そうな表情を隠せないイタリアとオーストリア。ドイツは指でこめかみを押さえてちょっと思案すると、
「あー……イタリア、そろそろシエスタの時間じゃないか? 作業の途中で寝られると困るからな、いっそ寝たらどうだ」
 腕時計をとんとんと叩いて時刻を示す。
「え! もうそんな時間?……あ、ほんとだ、眠くなってきた……あれ、兄ちゃんどこ?」
「兄貴か? そういえば一度も姿を見ていないが……」
「ロマーノならスペインのところだと思いますよ。この分だとスペインも寝てそうですね……」
 オーストリアはやれやれと肩をすくめると、ドイツに目配せをした。ドイツはアイコンタクトを受け取ると、軽く手を上げて礼をする。
「じゃあ、オーストリア、あとは任せた。なんなら兄弟一緒にまとめておいてやってくれ。シエスタ組は一箇所に集めておいたほうが、居場所がわかりやすくていいだろう」
「任されました。何があったのかは知りませんが、まあ会議には支障のないようお願いしますよ」
「そのつもりだ」
 そう言うと、ドイツは足早に廊下を進みはじめた。フランスに、あとに続くようにと合図をして。


不審物の処理方法

top