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現実は予測困難


 ああ、もう、なんでこんなことに!
 プロイセンはなかば絶望的な気持ちで叫んだ。もっとも、口を厳重に封鎖されているために、実際に言葉を発することは不可能であったが。
 とりあえず、当面の生命の危険――ドイツ提案の爆破処理という名の爆殺――は脱したものの、新たなる危機的局面に対峙する羽目になってしまった。心の準備なんてほとんどできていなかったのに。しかも、逃げ場はないと来た。なにしろ意識を取り戻してからこっち、狭いわ暗いわで何も見えなかったし、ろくに動けないのだ。実を言えば、自分でも自分の身体状況を把握しきれていないのだが、手足の自由が封じられているのは間違いない。
 ちくしょう、あの野郎、なんてことしやがんだ。彼は、疑いようもなく犯人だと思われる人物の顔を思い浮かべ、胸中で罵った。呪いの言葉を吐きたかったが、そんなことをしても呪詛返しを食らうだけだとわかっているので、思いとどまる。
 この状況から離脱する方法なんてまったく閃かない。焦燥と動揺に駆られるあまり、泣きたくなってきた。
 くそ、こっち見んじゃねえよ、俺は見世物じゃねえんだぞ。注がれる視線から逃れるように、彼はますます顔をうつむける。
「え、おまえ、プロイセンだよな? ちょっとよく顔見せてみな」
 プロイセンの焦りを知ってか知らずか、フランスが耳を引っ張って無理矢理顔を上げさせてくる。
「んんっ……」
 強引に首を持ち上げられたプロイセンは、苦しげに鼻から息を漏らした。一瞬薄目を開けたが、すぐにぎゅっと力を込めて閉眼してしまう。眉間にはくっきり皺が寄っている。
「お、いまの顔、なんかエロくてよかったぞ」
 フランスは軽口を叩きながらプロイセンの顎を掴んで正面に固定した。
 プロイセンの口はガーゼやテープというよりは、巨大な絆創膏とでも表現したほうがいいような白い布で完全に塞がれていた。重要事件の容疑者が、舌を噛み切らないよう口の動きを封じられるのと同じような措置である。ただの猿轡よりも重々しく生々しい。加えて、首から下は完全に拘束衣に覆われている。ファッションだとしたら倒錯的すぎるその姿に、フランス改めて驚く。
「っつーか、なんで拘束なんかされてるんだおまえ? いや、ほかにもいろいろ聞きたいことあるけどさあ……って、とりあえずそれなんとかしねえと答えるに答えらんねえか。ちょっと待ってろ、外してやるから」
 フランスの手が顔の横に伸びてくる。プロイセンはぶんぶんと頭を振って抵抗する。
「おい、暴れるな。いま解いてやるから。ドイツ、こいつの肩押さえてくれ」
 プロイセンが自由にならない体を捻ってなんとか逃れようともがくので、フランスは先ほどから沈黙を守っているドイツに応援を要請した。が、返事がない。
 不審に思って横を振り向くと、ドイツは呆けた表情でいまだに凍結していた。フランスは、本格的に暴れだしたプロイセンの上半身を両腕で押さえつけつつ、つま先でドイツの脚を蹴って注意を引いた。
「おーい、ドイツー? 聞こえてるかー?」
 そこでようやくドイツは外界の声に気づき、フランスのほうを向いた。
「肩、押さえてくれ」
「あ、ああ……了解した」
 と、彼は腕を折り曲げたかと思うと、自身の肩に手を触れさせた。
「誰が自分の肩押さえろっつったよ。物静かに混乱してるんじゃねえよ、わかりにくい」
「俺は冷静だが」
 声音だけは平然として、今度はフランスの肩に手を置いてくる。
「嘘付け嘘! 大分テンパってるだろーが。まあいいや、おまえはこうやって背中支えててやれ」
 フランスはプロイセンの体をドイツのほうへ軽く放った。ドイツは反射的に両手でキャッチする。すると、自然と肩を押さえるようなかっこうになる。プロイセンは仰向けの状態で、ドイツの胸に背中を預けることになった。
「うし、準備OKだな」
 フランスはおもむろにプロイセンの胴を跨ぐと、体の上に圧し掛かった。ドイツはまだ現実感が戻っていないのか、ぼんやりとその行動を眺めるだけだった。
「――――っ! ――――っ!」
 声にならない声で、プロイセンが抗議の悲鳴を上げる。それでもなお顔を隠したいという心理が働いているのか、詮無いことだと言うのに、いまだに目を閉じたまま首を可能な限り横に背けている。
「落ち着けって。別にいじめようってんじゃねえから。おまえの馬鹿力対策だよ。……頭突きはやめてくれよ、プーちゃん」
 フランスはプロイセンの額を掴むと、ドイツの胸にぐっと押し付けて頚部の動きを封じ、ぺりぺりと口元の粘着テープを剥がしてやった。
「んっ……」
 プロイセンがひくりと唇をわななかせる。が、すぐには開かず、また、声も出ない。なにやらもごもごと口腔を動かしているので、フランスは彼の口に人差し指を突っ込んだ。と、指先に歯ではない何か硬い感触を覚え、奥まで差し込まずに止める。もしやと思って親指も浅く差し込んでみると。
「うっわ、バイトブロックまで噛まされてんじゃん。こりゃ苦しいわな」
 予想以上に厳重な、文字通りの口封じっぷりである。とんだ凶悪犯扱いだ。うっかり噛まれないよう注意を払いながら、フランスはプロイセンの奥歯に挟まれていたバイトブロックを外してやった。
「う……げほっ」
 プロイセンは空咳をした。嚥下できなかった唾液が、口角からこぼれて下顎へと伝っていく。
「大丈夫か?」
「ぁ……」
 ドイツが背後から手を伸ばし、プロイセンの口元をハンカチで拭ってやる。プロイセンは思わず首を斜め上に向けてドイツのほうを見た。しかし、目が合った瞬間、そそくさと視線を逸らしたかと思うと、またしても可能な限りうなだれた。気道を一部塞がれた状態で興奮したために軽い酸欠を起こしたのか、頬が紅潮している。ちょっと涙も浮かんでいた。
 はあ、はあ、と気流のような音が彼の喉から繰り返される。
 呼吸音にしてはおかしい。フランスはプロイセンのおとがいに指を当ててもう一度上を向かせた。
「どうした? もしかして声出ないとか?」
 フランスの問いに、プロイセンは首を縦にも横にも振ることなく黙りこくっていたが、やがて無言と沈黙の棘に根負けし、
「……らしい。喉が痛ぇ」
 なんとか答えた。しかし、気息性が強くてほとんど有声音が出なかった。呼気流と調音運動だけでどうにか話している状態だ。喉が灼け付くように痛い。口呼吸が可能になったがゆえに、口から喉までダイレクトに空気が届き、声帯への刺激が一層強く感じられる。
「いったい何があったん――」
「喉を痛めているならしゃべらないほうがいい」
 質問を続けようとするフランスを遮り、ドイツがプロイセンの口を手で軽く押さえた。フランスは虚を衝かれたように目をしばたたかせたが、ドイツを一瞥すると、やれやれと苦笑した。ドイツはどう解釈すべきなのか迷ってしまうような、複雑な表情を見せていたが、いちばん濃くにじんでいるのが心配の色なのは間違いない。
「とりあえずこれ脱がしてやるのが先決か。暴れるなよ?」
 フランスはプロイセンが着せられている拘束衣の袖のベルトを緩めてやった。ようやく上肢が解放され、彼はもぞりと腕を動かした。
 続いて胸元を広げてやろうと、フランスが硬い埋込み式ボタンに手を掛けたそのとき。
「あ、ここにいたんだ、よかった」
 部屋のドアが開け放たれると同時に、聞き覚えのある声が届いた。
「探してたんだよ」
 三人の間に瞬間的に走った緊張感とは対照的に、四番目の登場人物の声と表情は、どこまでものんびりとしたものだった。
「ロ、ロシア……てめえ……」
 フランスとドイツに先立ち、プロイセンが忌々しげにその名を呟く。が、ほとんど喘鳴のようなささやき声だったので、ふたりには聴取されなかった。ロシアの穏やかな微笑をねめつけつつも、彼は嫌な汗が背中を流れるのを感じずにはいられなかった。


落とし者?

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