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落とし者?


「ロシア!」
 フランスとドイツは突然現れた人物の名を口にすると、反射的にそちらを振り向いた。その瞬間、プロイセンがびくっと背筋を張るが、小さな動きだったので気づかない。
 ロシアはふたりの注目を浴びながら、優雅な足取りで部屋の中心部まで歩いていく。片手にはやや分厚いプラスチックの書類ケースが揺れている。
「騒がせちゃったみたいで悪かったね。それ、僕のなんだ」
「おまえの、だって?」
 ふたり同時に聞き返すと、ロシアはうなずきながらぴっと人差し指を出した。それ――という指示代名詞が示すのは、トランクなのか、その中身なのか。
「受付で一旦預けたはいいけど、どこに運ばれたのかわかんなくなっちゃって。控え室いっぱいあるから探すのに手間取ってね」
 胡乱な目つきで見上げてくるドイツとフランス、そして斜めに視線をずらしているプロイセンの前に立つと、ロシアは困ったようにくすりと笑った。その顔怖いよ、とでも言うように。
「ね、ふたりとも、そんなつもりはないんだろうけど、その体勢はちょっと危ないよ? 傍から見たらリンチしているようにしか見えないって」
 指摘され、ドイツとフランスは顔を見合わせた。
 確かに、何も知らない者がいきなりこの光景を見たら、とんだ誤解を招くに違いない。拘束された人間相手に、ふたりがかりで何をしているというのか。いや、助けてやるつもりだったのだけど。
「こいつの表情もやべぇしなあ……」
 フランスはしげしげとプロイセンの顔を見下ろした。と、先ほどとは少々顔つきが異なっていた。さっきまで露骨に嫌がっていたのだが、いまはひどく気まずそうに唇を結んでいる。
「おい、どうした――」
「どけよ。重い」
 心配そうに尋ねてくるフランスを邪険にして、プロイセンはかすれ声で短く告げた。
「あ、ああ、悪い……」
 プロイセンがあまりに剣呑な雰囲気だったので、フランスは怒りを覚える前に呆気に取られしまい、言われたとおり立ち上がってどいてやった。
 プロイセンは拘束衣の長い袖の内側にある手の平を地面につき、長らくドイツに預けていた体重を自分で支えた。大丈夫か、というドイツの問いに、小さくうなずく。しかしドイツは心配なのか、彼の背に手を軽く添えたままだ。
 床に腰を下ろしたまま、プロイセンは背を丸め、やはり伏目がちに顔をうつむけている。
 ドイツが不安げに見守る中、近づいてきたロシアは彼の横に膝をつくと、
「ちょっといいかな」
 軽く断りを入れてから、プロイセンの背に手を当てた。こっちに寄越して。言葉より雄弁に告げる動作だった。ドイツは相手の意図を探るようにためらったが、当事者たるプロイセンが逃げるようにロシアのほうへ少しだけ頭を傾けて顔を隠したので、手を退かざるを得なかった。
 ちら、とロシアの腕の陰に隠れて、プロイセンがドイツを窺う。
「あ……」
 ドイツは思わず声を発しかけたが、言葉が続かない。自分でも、何を言おうとしたのか、何を言えばいいのか、わからなかった。プロイセンは困惑したドイツの表情を視界から遠ざけるように目を逸らした。フランスは第三者を決め込んでいるようだが、傍観しているわけではなく、静かに状況を観察していた。
 彼らが無言のやりとりを交わしている間に、ロシアは胸ポケットからサングラスを取り出して、プロイセンに掛けた。貸してあげるよ、と言いつつ。
 訝しそうなドイツとフランスの視線を受け、ロシアが肩をすくめながらさらっと答えた。
「まぶしかったみたいだから。目、あまり光に強くないようでね」
 いや、さっきからどう見ても顔を隠したがっているようにしか見えないんだが。ふたりはロシアの説明に胸中で異論を唱えたが、サングラスで目元を隠された当の本人が幾分安心した様子でこちらを振り返ってきたので、何も言わなかった。ひたすら視線を避けられ続けるよりは、黒いプラスチックのレンズ越しのほうがいい。もっとも、最初から掛けているならともかく、いまさら目だけ覆ったところで、顔を隠す効果などないに等しいのだが。
 ロシアは提げてきたプラスチックケースから未開封のペットボトルを取り出すと、プロイセンに渡した。ラベルはドイツ語だ。こちらで調達したのだろう。
「はい、水。飲んだほうがいいよ」
 プロイセンはミネラルウォーターを受け取ったものの、服の構造上、手が布に覆われているため、ボトルの蓋をひねろうにも手の平の内側で空回りしてしまう。
「くそっ、滑る」
「貸してごらん」
「そんなひ弱じゃねえよ」
 プロイセンはむっとしながら答えるが、息漏れが全面的に出たかすれ声は、かなり弱々しく聞こえた。相変わらず声帯がまともに振動してくれないらしい。
「腕力握力じゃなくて摩擦の問題だよ。まあ、そう言うなら条件を整えてあげるけど」
 と、ロシアは拘束衣のファスナーを降ろし、脱がしにかかった。
「い、いい! 自分で――」
「自力じゃ着脱できないから拘束衣なんでしょ」
「う……あ、開けてくれ」
 人前で着替えを手伝われるよりは蓋を開けてもらうほうがなんぼかましだと判断し、プロイセンはペットボトルをしぶしぶロシアに渡した。ボトルはすぐに開封されて返ってきた。彼は飲み口を唇で挟むと、勢いよく傾けた。が、二秒後には盛大にむせ返っていた。液体が喉頭侵入したようだ。
「げほっ……はっ……」
「せっかちだね」
 ロシアは呆れながらも、最初からこうなることを予想していたようで、落ち着いた様子でプロイセンの背をさすった。プロイセンは激しく咳き込んでいる。
「ほら、咳しすぎると余計喉痛めるよ?」
 あれだけかすれてるんだから、とおもむろにプロイセンの喉仏に触れる。
「元はと、言えば……全部、おまえのせい……だろが」
「責任転嫁しないでよ。きみが言うこと聞かないからじゃない」
「だからってあれは横暴すぎるだろ!――っごほ!」
「大声出さない。水飲んだところでいきなり声帯に水分が染み込むわけじゃないんだからさあ」
 ……………………。
 ロシア語でやりとりをする彼らを、ドイツとフランスは遠巻きに眺めていた。状況観察というより、単に口を挟む隙がないといったほうが正確だ。何を話しているのかはよくわからないが、なんとなく、邪魔をするのがはばかられるような雰囲気が漂っている。
 なぜこいつらがこんなふうにしゃべっているんだ?――大いなる疑問が渦巻くが、目の前の光景の一種異様さに気圧され、沈黙に陥ってしまう。
 すっかりギャラリーと化していたふたりだったが、プロイセンがペットボトルの水を粗方飲み干したところで、ドイツが一歩進み出た。
「どういうことだ、ロシア」
 明らかにトーンが低い。一瞬にして場が不穏な空気に変わる。しかしロシアはにこやかな調子を崩さないまま振り返る。
「うん?」
「おい、ドイツ、落ち着け。ここで騒ぐのはまずい」
 フランスが慌ててドイツのそばに寄ると、肩を掴んで耳元でささやいた。険悪な様相を呈するドイツにハラハラしながら。
 が、ドイツはフランスの制止などものともせず、腕組をしてロシア及びプロイセンの前に立った。彼特有の威圧感を全身に纏って。 気色ばむ彼に肝を冷やしながらも、フランスはいつでも割って入れるよう臨戦体勢をひっそり整えておく。できれば逃げ出したいところだが、放置するのもまた恐ろしい。
 ドイツは、無造作に放られたトランクをじろりと見やったあと、足元のプロイセンに視線を落とした。プロイセンはサングラスの下から相手を一瞥したが、目が合った瞬間(ドイツからは彼の目の動きはわからないはずだが)、すぐに眼球を下に向けてしまう。
 なんて居心地が悪いんだ。ドイツとロシアに挟まれたプロイセンは、逃げ場もなくその場で固まるしかなかった。


人としてまずいだろう

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