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人としてまずいだろう


 うわあ、なんかこいつ怒ってる。絶対怒ってる……!
 どこかに脱出路はないか。あんまり愉快じゃないが、いまならフランスの野郎と逃避行を演じてやってもいいぜ。あいつも微妙に身の置き所に困ってるみたいだしよ。そりゃ、この場のプレッシャーは半端ねえからな、逃げ出すのは恥じゃない、生存本能だ。利害が一致してるなら、一時的に組むのも悪い手じゃないよな……。
 長身ふたりに両脇を固められたプロイセンは、なかば現実逃避に走りながらも、実際には床に座り込んだまま、ドイツが口を開くのを待つしかなかった。
 一触即発にもなりかねない空気に、部屋全体が緊張に包まれる。
 そんな中、ドイツは低い声でロシアに言った。
「いったい何を考えているんだ、ひとを拘束してトランクに閉じ込めるなんて。おまえのところの基準はともかく、こちらでは人権侵害にあたりかねないぞ、このような処遇は」
 と、ドイツはプロイセンを目線で指す。
 プロイセンの姿といえば、凶暴な囚人か、でなければ不穏を起こして錯乱した入院患者さながらの拘束衣に包まれている有様だ。しかもバイトブロック入り猿轡、とどめにトランクに詰められる……まったくもって過酷な扱いだ。
 ほとんど、というか、完全に荷物である。
 おまえに人権感覚はないのか、と怒り心頭なドイツにちょっと毒気を抜かれつつ、フランスがずるりと右肩を下げた。
「お、怒ってるのはそこなのか……や、まあ、確かにこれはちとひどいと思うが」
 なんか焦点が違わないか。なんていうか、ほかにもっと優先して突っ込むべきポイントがあるんじゃないか。フランスは言外に仄めかしてみたが、ドイツはいたって真剣そのもの。いや、この男はたいてどんなときも全力で真面目に生きているのだろうが。
「少しどころではないだろうが」
「ま、まあ、そうだな。俺もこーいうのをリアルで見るのは久しぶりだぜ。コアなアングラビデオの再現かと思っちまったくらいだ。……案外おまえんち、この手のDVD揃ってたりして?」
「いまはふざけていい場面ではないぞ、フランス」
「へいへい」
 フランスの発言で話題が脱線しかけたところで、ロシアが苦笑とともに答えた。
「きみたちのほうはそういうのうるさいからねえ、言われると思った。でも、内政干渉はやめてね。こっちもいろいろあったんだから。それに大丈夫、これちゃんとした医療用具だから、安全性はばっちりだよ。もともと着用者の安全のためにつくられたものなんだし」
「しかし、なぜよりにもよってそんな処置を? 暴れたのか?」
 ロシアは困ったように首を傾けると、いたずらっこのように、しかし悪びれる様子もなく、堂々と白状した。
「んー、それがね、どうしてもここへ連れて来たかったんだけど、全力で拒否されてね、全然説得されてくれないものだから、仕方なく一旦眠ってもらった上で強引に引っ張ってきたんだ。時間もあんまりなかったし。会議に遅れたらまずいでしょ?」
 まるで世間話でもしているかのようなのほほんとした口調だが、内容はとんでもない。
「相変わらず惚れ惚れするような実力行使っぷりだな……」
 ドイツとフランスは思わず声をハモらせた。
 怒りを通り越して脱力気味のふたりに、ロシアはパチンとあまり上手でないウインクをして見せた。
「ごめんね、連れが面倒をかけて。あとは僕がなんとかするから」
 そう言って彼はプロイセンの頬に手の甲を当てた。体温でも測るように。右頬、次に額、そして左頬へと、手が動いていく。プロイセンはちょっと迷惑そうに眉をしかめつつもどこかリラックスした様子で目を閉じ、相手の好きなようにさせていた。
 ドイツはフランスとともに、なかば呆然としてその動きを見ていたが、先ほどからのロシアの発言に引っかかりを覚えて思わず呟く。
「連れ……?」
 連れ。連れて来る。
 ロシアの説明には、そんな単語が含まれていた。
 誰が誰を連れてくるというのか――いま目の前で繰り広げられている状況が、その答えなのか?
 ふたりは口をぽかんと開けたまま立ち尽くした。現前事象に対する認識と理解が追いつかない。
 一方、ロシアはプロイセンの脇に両腕を差し込んだ状態でよいしょと立ち上がり、
「ねえ、医務室って使えるかな? ちょっと脱水起こしてるみたいだから、手当てしたいんだ」
 彼を腕と胸で支えながらふたりに尋ねた。
 ロシアに寄りかかる羽目になったプロイセンは、慌てて身を離そうと腕を突っ張る。
「お、おい、ひとりで立てるって!」
 まだ気息まじりが目立つが、いくらか声は出るようになっていた。
「ほんとに?」
 プロイセンの主張をとりあえず尊重したのか、ロシアはぱっと手を離した。すると、
「うわ!」
 がくん、とプロイセンの両膝が折れて前につんのめる。結局、自分からロシアの肩口に逆戻りすることになった。
 ロシアは彼のつむじを見下ろしながら、くすりと笑った。
「立ててないよ?」
「くっ……」
 悔しそうに奥歯を噛むプロイセン。
「わかったら潔く諦める。っていうか、そもそもその格好で歩けるわけないじゃない」
 拘束衣は全身用の袋状のもので、当然脚部も全面的に包んでいる。
「おわぁ!?」
 唐突な浮遊感に、プロイセンは間抜けな悲鳴を上げた。急激に視界がぶれ、なんとか治まったと思ったときには、彼の体は地面から離れていた。
「お、おまえ……!」
「はい、暴れない暴れない。落ちるよ?」
 一秒後には、プロイセンの胴はロシアの肩に乗っていた。片方の膝の裏に腕を引っ掛けられ、さらに同側の肘を引き寄せられ、がっしりと固定される。消防士が要救助者を担いで運ぶときのスタイルに近い。
 いきなり抱き上げられたプロイセンは、本能的に重心が落ち着きやすい位置を探してわずかに身じろぐ。と、第三者たちの視線が痛いほど突き刺さってくるのに気づいた。
 ドイツの青い瞳がこちらに集中して固定されているのが、サングラス越しにもよくわかった。
「う〜……」
 情けないやら恥ずかしいやら悔しいやら気まずいやらで、プロイセンは短くうめくと、視線から逃れるようにロシアの肩甲帯に顔を埋め、撒き付くように腕を回した。姿勢としては安定しているが、顔が地面に向いているので、落下の恐怖感がある。
「こっちの腕、もうちょっと下げられない? 前が見えないよ」
 運搬者に注意され、彼はロシアの肩を軽く掴んだ。長い袖がぶらぶらと揺れる。
 ロシアがフランスに医務室への案内を依頼する中、プロイセンは自ら穴を掘って埋まってしまいたい気持ちでいっぱいだった。こいつは赤面どころの騒ぎじゃない。顔を伏せているものの、フランスがちらりちらりとこちらを窺っているのが気配でわかる。プロイセンは屈辱を噛み締めたが、できることといったらやはり面を伏せることくらいだった。
 扉のほうへ移動し、廊下へ出ようとしたところで、
「おい」
 トランクの片付けをしていたドイツが声をかけた。
 びくん、とプロイセンは身を固くする。
 ロシアは立ち止まると、彼を担いだまま、少しだけ体を回してドイツのほうを向いた。
「うん? 何かな?」
 ドイツは、自分から呼び止めたというのに、言葉に困った様子で言いよどんだ。
「あ、いや……あまり乱暴に扱わないでやってくれ。その……体調が悪そうだからな」
 珍しく歯切れの悪い口調のドイツ。ロシアは軽くうなずいて見せた。
「もちろん」
「あとで持っていく……これ」
 ドイツがトランクを指して言うと、ロシアはぱっと笑った。
「あ、いいの? ありがとう」
「あ、ああ……」
 それだけ交わすと、ロシアは歩みを再開させ、扉を通過した。
 部屋にひとり残されたドイツの複雑な表情が頭から消えず、プロイセンは静かに息を吐いた。
 そんな顔、すんなよ。
 言い知れぬ罪悪感が胸に湧き出てくるのを、彼は努めて無視した。


困惑と混乱

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