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困惑と混乱


 フランスの先導で医務室まで移動する道すがら、それなりに背丈のある大人をひとり肩に担いで歩くロシアは、通行人の注目を一身に集めた。いや、むしろ、注意を引いたのは抱き上げられているほうの人物だった。ロシア自体、普段のこの会場からしたら部外者なのだが、その彼が得体の知れない人物を連れている。というか、運んでいる。しかも、なんだか物騒な格好だ。
 野次馬の好奇心を煽るにはこれ以上ない餌だ。
 ああ、くそ、見るんじゃねえ。俺だって好きで担がれてるわけじゃねえよ。いい年した男がこんなふうに運ばれるなんて、屈辱以外の何ものでもないっての。
 プロイセンはロシアに体重を預けたまま、惨めな思いで揺られていた。顔を上げるなんてもってのほかなので、必然的にロシアの肩と背にしがみつき、肩甲骨のあたりに思い切り顔面を引っ付けることになる。
 しかし、どのみち会議になれば皆のさらし者になるだろう。なんという道化師だ。はははは……いっそ笑えてくるぜ。いや、笑えもしないか。プロイセンは今後の日程を思い起こし、憂鬱な気分になった。
 医務室に到着すると、ロシアはフランスに礼を言い、ひとまず手当てに集中したいから、と告げて彼を廊下に閉め出した。
 ベッドに下ろされた、というか放られ転がされたプロイセンは、腕をついてのろのろ上体を起こした。が、自力で体を支える段になると、ひどくふらついていることに気づいた。ロシアの言ったとおり、完全に脱水を起こしている。それもそのはず、あの日、速効性らしい催眠ガスを嗅がされて以来、何も体に摂取していないのだ。丸一日、いや、それ以上経過しているだろう。
 モスクワで仕事をしていたはずなのに、目覚めてみれば真っ暗な空間で身動きが取れなかった。そして、視覚が遮断された状態で届いてきた最初の外部情報は、ひどく懐かしい声だった。長い間聞くことのなかった彼の肉声。いままで流れた年月が意味を成さないほど、鮮明に覚えていた――もっとも、余韻に浸る暇などろくになかったけれど。状況が状況だったし、第一トランクに詰め込まれた状態で感傷的な気分になれるとしたら、そいつはもうロマンチストを通り越して病人だ。
 なんかもう無茶苦茶だ。順番も段取りもあったものではない。
 もう会うことはないと思っていた相手とあんなにあっさり再会するとは。それも、とんでもないかたちで。
 運命を司る神様なんてものがこの世界に存在するとしたら、そいつは絶対俺に個人的な恨みがあるに違いない。プロイセンはそう確信せずにはいられなかった。彼らの世界観を統べる唯一神の存在についてはこの際置いておくとして。
 モスクワからブリュッセルへの強引な瞬間移動(彼の感覚としてはまさにそんな感じだ)に憤るも、脱水症でぼうっとする頭では思考も感情もまとまらない。肘を突いた中途半端な体勢でぼんやり虚空を見ていると、ふいに衣擦れの音と感触に気づいた。
 はっとしてまばたきをし、焦点を定めると、ロシアが彼の拘束衣を脱がしかけているのが視界のど真ん中に映った。サングラスはいつの間にか外されていた。
「……何してんだよ」
「現地に到着したことだし、もう解いてもいいかなと思って。それともまだ着ていたいの? きみってそういう趣味あったんだ?」
「ねえよ!」
 プロイセンは唇をひん曲げるも、衣服の構造上、自力で脱ぐのは困難だと判断し、仕方なく相手に任せる。
 体幹のベルトが外され、全体のファスナーが下ろされる。拘束用の長い袖から腕を引き抜くと、外気の涼しさがひどく心地よく感じられた。ああ、自由っていいな。わずかばかりの解放感に彼はちょっぴり癒された。
 上肢が使えるようになればあとはなんとでもなる。彼はいそいそと袋状の布から脚を出した。と、ふいに自分の体を見下ろし、
「うわ、なんだこのシャツ!? 俺、こんなん着てた覚えないぞ!?」
 拘束衣の下に着用していた自分の服に驚く。
 どこかで見たようなマトリョーシカ総柄の開襟シャツ。襟元には存在意義のわからないリボン。マトリョーシカの顔が微妙にリアリティを帯びているのがなんとも気持ち悪い。こんな露骨に趣味の悪いシャツを買った覚えがないのだが。
 さらに下を見ると、ボクサーパンツが一枚――よかった、これは自前のものだ。
「ワイシャツのままじゃ苦しいかと思って、着替えさせたんだ。綿シャツのが楽でしょ?」
「着心地はともかく、デザインが最悪だ」
「あ、着替えはちゃんとここに持って来てあるよ」
 と、ロシアが大きめの紙袋を渡す。開くと、そこにはスーツ一式とインナーが入っていた。
「そうか……よかった。危うくこの部屋から出られなくなるところだったぜ」
 プロイセンは、悪趣味なシャツを着ているところを目撃されずに済みそうなことにほっとした。さっそく着替えようと袋の中身を掴むが、ロシアがそれを留める。
「着替える前に手当てしないと。わざわざ医務室に来た意味ないよ」
「ただの水不足だ、水分補給すりゃいいだけだろ」
「じゃ、これ全部飲める?」
 ロシアはどこから調達したのやら、水がいっぱいに入ったタンクをプロイセンの前に突き出した。軽く三リットルはありそうだ。プロイセンが返事に詰まっている間に、ロシアがとっとと話を進める。
「輸液で入れたほうが早いよ。いきなりこんなに飲んだら消化器官に悪いし」
「わかったよ」
 所詮、決定権はロシアにあるのだ。これってパワハラだよな。プロイセンは内心ぼやいた。
「じゃ、看護師に頼んでくるね」
「え……あ、ま、待て、せめてズボン穿いてからにしてくれ!」
 仕切りのカーテンをひらりと潜り抜けていくロシアの背に、プロイセンが上擦った声で叫んだ。声量を上げると、やはり喉が痛んだ。

*****

 ロシアらを医務室に案内したあと、ふとドイツの姿がないことに気づき、フランスはもと来た道を戻っていた。まだ控え室に残っているのだろうか。
 交差する通路を横切って階段へ足を向けたとき、曲がり角から現れたオーストリアに呼び止められた。
「フランス、ちょっといいですか」
「なんだ、おまえかよ。どうした。イタリアの面倒はいいのかよ?」
「それなら、スペインが幸せそうに受け持ってくれましたよ」
「あ〜、そんときの顔、すっげ想像できるわ」
 フランスはうんうんと首を縦に振った。
 オーストリアはしばしの逡巡のあと、ためらいがちにフランスに言った。
「あの、先ほどあなたがロシアと一緒にいるのを見かけたのですが」
「ああ。だって明日はいつもの会議じゃなくて、ロシアとの話し合いをするんだから、来てて当然だろ。むしろ当日ぎりぎりに滑り込まれるほうが困る」
 オーストリアが何を目的に話しかけてきたのか推測はついたものの、フランスはあえて事務的な受け答えをした。直接接触したとはいえ、彼もまだ状況に対する確信がないからだ。
 しかし、オーストリアはさらに踏み込んできた。
「そういうことではなくて……彼が連れていたというか、持ち運んでいた人物についてなんですが。変わった格好をした」
「顔見たのか?」
 端的なフランスの問いに、オーストリアは首を横に振る。この様子だと、あれが誰なのか、本当にわかっていないのだろう。しかし、かなり気にしてはいるようだ。こうしてフランスに声を掛けてくるということは。
「いえ、ずっと伏せていたのでよくわからなかったのですが、なんと言いますか、こう、妙な感覚がして」
「妙な感覚?」
 聞き返され、オーストリアは困ったように言葉をよどませながら、
「どう表現していいのか迷いますが、そうですね……あえて言うなら、昔紛失したまま探しもしなかった万年筆が思いも寄らないところから発見されたときのような、そんな感じです」
 おかしな比喩をもって表現した。フランスは露骨に眉をしかめ目をぱちくりさせた。
「なんじゃそりゃ……ものすごくわかりにくいぞ、その例えは」
 とはいえ、ニュアンスは伝わってこないでもない。
 やっぱり通じるものがあるのかね、とフランスは目の前に立つ彼をまじまじと見た。
「……? 私の顔に何か?」
「いや、そういうんじゃねえけど」
 と、そのとき。
「フランスくん」
「うお!?」
 突然背後から肩を叩かれ、フランスはびくんと首をすくめた。角に立つオーストリアからも視覚になっていたようで、やはり驚いた様子である。
 話題の渦中にある人物のお出ましに、ふたりはどぎまぎしつつも顔を向けた。
「どうした、もう手当ては終わったのか?」
「いまその最中」
 と、ロシアは一拍置いて。
「ねえ、もう少ししたら、医務室に寄ってくれない? 変なとこで悪いんだけど、本会議の前に話しておきたいことがあって」
「おまえのお連れさんのことで?」
 オーストリアの手前ということもあり、あえて固有名詞は出さずに尋ねる。ロシアはこくりとうなずいた。
「うん、そんなとこ」
「わかった。ドイツはどうする? あいつもさっきの場にいたんだがな」
「それは任せるよ。まあ、どのみち明日になれば話すことになるわけだけど」
 ロシアは踵を返すと、手の甲をひらひらと振りながら、医務室へと引き返していった。
 その背を無言で見送るフランスに、オーストリアが怪訝な面持ちをする。
「何があったんです? ドイツがどうしました?」
 ドイツがフランスとともにロシアと接触したことは知らないらしい。唐突に出てきたその名前に、オーストリアは少し心配そうに聞いてきた。フランスは軽く腕を広げると、ややオーバーに肩をすくめて見せた。
「俺にもまだよくわからんね、どういう事態なのか。とりあえずドイツ呼んでくるか。中途半端な状態で一夜越すのは気持ち悪いだろうからな。オーストリア、おまえはこっちにあんま動揺が行かないように注意しててくれ。あと、ドイツしばらく借りるから、イタリアには適当に言っといてくれ」
 核心的な話は避け、やや遠回しなわかりにくい指示でそう言うと、フランスは改めて控え室へと向かった。
 先刻、珍事件のあった部屋の前に到着する。半開きになった扉の隙間からそろそろと中を覗くと、案の定、ドイツがひとりぽつねんと残っていた。
 ドイツはきっちりと元通りに収納したトランクの前で棒立ちになっている。
「あれはいったい……」
 呟きながら、半時間前にここで起きた珍妙な遭遇を思い出す。
 避けるように目を閉じ、顔を背けていた彼。現れたロシア。そして、ロシア語でなにやらしゃべったあと、担がれて連れて行かれた。ロシアの肩に顔を伏せていた姿が、なぜかまぶたの裏に焼きついている。
「まさか、な……」
 記憶に残るその光景を追い払うように、ドイツは首を振った。
 なぜ追い払いたいのか、その理由までは考えが及ばなかったけれど。


安静不能

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