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安静不能


 一旦席を外していたロシアだったが、五分ほどして医務室に戻ると、ベッドに腰掛けて輸液を受けつつ高カロリーのブロック食をかじっているプロイセンの姿があった。あのあとどういう経緯を辿ったのかは不明だが、ノータイであるもののワイシャツに着替え、下はきちんとズボンを穿いている。彼は点滴の針の刺さった右腕を台に置き、左手で長細いクッキータイプの携帯食を掴んでいた。腹が減っていたらしく、かなりがっついている。サイドテーブルにはすでに一袋が空になっていた。ブロック食の形状として不可抗力ではあるのだが、ぼろぼろと食べこぼしてはシーツの上に細かい欠片が落ちていく。ロシアは呆れた苦笑を浮かべながらカーテンの内側に入った。
「どう? 調子よくなった?」
 咀嚼中に尋ねると、プロイセンは飲み下す作業を忘れて思い切り下顎を下げ、
「おまえはぁぁぁぁ! なんてことしてくれるんだ!」
 開口一番そう叫んだ。大分有声音が出るようになっている。ロシアは飛ばされてくる唾と食べかすを避けるように一歩退いた。
「わ、怒涛の復活劇。よかったよ、元気そうで。でも、口にモノ入れたまましゃべらないでよ、行儀悪い」
「何がよかっただ、この諸悪の根源が! なんなんだよあの処置は! 力技にもほどがあるだろーが!」
 水分とカロリーを補給したら、怒りのエネルギーも充填されたらしい。プロイセンは力むあまり、食べかけのクッキーを握りつぶした。木っ端微塵となった小麦粉の成れの果てが宙を舞う。
 とげとげしい調子の彼を前に、しかしロシアはしれっとしている。
「えー? 別に暴力的なことは何もしてないでしょ。ガス撒いただけじゃない」
「二十四時間以上意識が戻らないようなガスのどこが暴力的じゃないんだ!」
「だってきみ、スタングレネードやフラッシュバンくらいじゃびくともしなさそうなんだもん。さすがに実弾使ったら大事だし」
「だからってあんなやべぇガス撒くか普通!? ってか、なんかすげぇ喉痛いんだけどよ……ごほっ、けほっ! ん……だめだ、声出すと痛ぇ。飲み込むのは平気なのに。……ってか、最初声出なかったんだけど! かすれ声もいいとこだっただぞ。それに、なんか体もだるいし!……まさか劇薬じゃねえだろな!?」
 明らかに風邪による喉の痛みとは違うそれに、プロイセンが目を険しくした。嚥下痛はないが、発声時に痛みを感じる。
「あ、それは大丈夫だよ。あのガス自体はそんな強力なものじゃないから。粘膜刺激が強かったのは、多分あのあと改めて嗅がせた毒ガ……睡眠薬のほうだと思うよ」
 微笑みながら説明するロシアだったが、プロイセンはますます気色ばむ。
「ちょっと待て! いま毒ガスって言いかけただろ!?」
「それはきっときみの空耳だよ。大丈夫大丈夫、人と環境に優しいをモットーに開発した毒ガ……睡眠作用のあるガスだから。非殺傷武器ってやつだね」
「ほら、また毒ガスって言いかけた! 絶対体に悪い物質入ってるだろ!? 微妙に力入んねえぞ、さっきから!?」
「力いっぱい叫べてるじゃない。クッキーも無残な姿だし。空耳が多いなんて、きっと疲れてるんだよ。まあ、トランクの中でちぢこまって運ばれたなら仕方ないか。あ、ちょっと痺れ気味なのはそういう仕様のガスだから。だってきみ、移動途中でうっかり目覚めて全快したら、縛っといたところで絶対暴れるでしょ? 念には念を入れて、ってことだよ」
「そこまでやった上でさらに拘束衣着せるって、どこまで用心深いんだよ! 俺はどんなレベルの危険人物だ! しかもバイトブロックまで噛ませやがって! 危うく自分の唾液で窒息死するとこだったんだぞ!」
「口を塞ぐ必要があるのは現状を見れば明らかだと思うけど。っていうか、喉痛いのにそんな大声出してどうするの。余計痛めるよ?」
 ロシアが忠告したと同時に、プロイセンは激しくむせ返った。喉元を押さえて少々涙を浮かべている彼の背を、ロシアは軽くさすってやった。そして、サイドテーブルに置かれたスポーツドリンクのボトルを手に取った。プロイセンは咳が落ち着いたところでそれを受け取ると、何口か含みごくんと飲み込んだ。
 はあ、と呼気を出したところで、再び勢いを取り戻す。
「しかもひとを荷物扱いで運ぶとはどういう了見だ!」
「経費削減」
「削るとこがおかしいわ! ってか、それって俺がお荷物ってことか!? そうなのか!? そうなんだろ!? へっ、どーせウチは絶賛闇経済で犯罪率高くて治安最悪で、密輸だの売春だの性病だの蔓延ってますよーだ!! 俺なんかおまえにとってお荷物以外の何ものでもないってことだろ! 周囲の連中にゃ超迷惑顔されてるしな!! ってか、汚染物扱いだぜちくしょう! 明日の会議だってどうせ俺を笑いものにするんだろーが!」
 プロイセンはひがみっぽくまくし立てた。しかし、被害妄想ではなく概ね事実の叙述になっているあたりが自分でも悲しかった。ロシアは、そんな彼の頭にぽんと手の平を乗せた。
「ほら、拗ねないの。問題解決のためにここまで来たんじゃないか。それに、トランクだって別にいいじゃない、僕自ら運んだんだし。成人男子ひとり、けっこう重かったんだよ? それともほんとに貨物便のがよかった?」
「なお悪い! っつーか、トランクなんぞに詰められたせいで、俺は危うくあの生真面目馬鹿に爆殺されるところだったんだぞ! 危険物扱いで! フランスの野郎がいなかったらまじで死んどったわ!」
 これまで死を覚悟したことは何度かあったが、トランクに押し込まれたまま人知れず爆裂四散するような惨めきわまりない終わり方を想像したことなどなかった。あるはずもない。
「実を言えば、僕はきみを信じてたんだよ。きみなら奇跡の大脱出くらい軽くやってのけるって」
 言い訳とも本音ともつかないロシアの言葉に、プロイセンはさらに煽られる。
「できるかっ! だったらせめて拘束衣はやめろ! 見た目は緩いが、着せられるとすごく動きが制限されるんだぞあれ!」
「そりゃあ、元来そういう目的のものだからね」
 ロシアはなんら反省の色のないコメントをしたあと、
「まあ、冗談はここまでにして……実を言えば会場に着くまできみのことは内緒にしておきたかったんだ。これまで秘蔵にしてたし、途中で僕と一緒のとこ目撃されて中途半端な誤解を招くのは嫌でしょ? それに……」
 意味深長にトーンを落とすと、プロイセンの顔にずいっと近づいた。思わず後傾しながら、プロイセンは至近距離の相手を見返した。
「な、なんだよ、まだ言い訳があるのかよ」
「きみ、ひとりじゃこっちの公共交通機関のシステム、よくわからないんじゃない? そのへん考えると、きみをひとりで移動させるのもちょっと心配だったんだよね」
「う……それは」
 五十年という隔絶された時間の長さが頭をよぎる。ブランクがありすぎて、いきなり西欧の都市に放り出されても正直当惑するかもしれない。さながら、五十年の刑期を終えて出所した元受刑者のように。
 しかし、あっさり相手に同意するのは主義に反するのか、彼は乾いた笑いとともに強がった。
「だ、大丈夫に決まってるだろ! ははははは、どっかのお坊ちゃんじゃあるまいし、俺がひとりで電車にも乗れねえような世間知らずなわけないじゃん! たとえ行き当たりばったりだってなんとかなるっての! ユーロスターだってばっちこいだ!」
 けたたましい空笑いを立てるプロイセンに、ロシアは眉根を寄せた。
「もー、しばらく絶食してた割には血の気が多いなあ。あ、そうだ、せっかく医務室にいるんだし、ちょっと血抜きすればいいんじゃない? ほら、腕出して、僕が採ってあげるから」
 そう言うとロシアはプロイセンの左腕を掴み、先ほど点滴を入れてもらったときに使用したゴムで上腕を縛って血流を阻害した。
「すごい、ぽっこり浮き出てきた! 皮下脂肪が薄いのかな? それとも静脈の走行がもともと浅いとか?」
 白い皮膚に青い血管が目に見えて盛り上がるのを見て、ロシアは興味深そうな声を立てる。確かに、気持ち悪いくらいはっきりくっきりと浮かび上がっている。といっても、彼の腕はもともとかなり皮静脈が浮いているのだが、それにしてもちょっと浮き上がり過ぎの感がある。ロシアはおもしろそうにつんつんと血管を指先で叩いた。先ほどの看護師の置き忘れなのか、採血用の注射器と針がテーブルの金属トレイに揃っているのを見たプロイセンは、本格的に抵抗をはじめた。
「やめろぉぉぉ! こう見えても最近貧血気味なんだよっ、無駄に採るなぁぁぁ! 俺の赤血球! ヘモグロビィィィィン! ウチがいまどんだけやべえと思ってんだ!……ああ、そうさ、血まで薄くなるヤバさだよ! 俺から搾取できるもんなんざなんもねえぞ!?」
「ちょっとは安静にしようよ。点滴中なんだから。針、抜けるよ?」
 わたわたとベッドの上でプロイセンが暴れ出す。ロシアは彼の右腕を引き寄せて自分の胸元に固定すると、肩を押して体をベッドに倒した。点滴の刺さった右腕はほぼ静止したままだったので、針がずれることはなかった。
「う……うわぁぁ、や、やだ! やめろ、やめろって! 嫌だ、よせ……!」
「ほら、暴れないの。もー、本気で血抜いたりするわけないじゃない」
 冗談だよ。軽い調子でそう付け加えながら、ロシアは上腕のせき止めを解いてやった。そして仰向けになったプロイセンの胸の上に軽く前腕をつき、苦笑しつつ上から覗き込む。
「おまえが言うとまじに聞こえるんだよ!」
 ロシアにかぶさられるような体勢のままプロイセンが叫んだとき――
 シャーッ、という小気味よい音とともに視界の斜め右が変化した。
 白いカーテンによって形成されていた緩い閉鎖環境が崩れ、外部の光景があらわになる。
 カーテンの向こうから現れたのは、先刻とんでもない再会を果たしてしまった相手だった。
 フランスと、その隣にドイツ。
 ふたりが並んでいるのを目の当たりにしたプロイセンは、なんとなく自分の機嫌が冷えるのを感じた。
 先に進み出たのはフランスだった。彼はベッドで格闘中のロシアとプロイセンを見下ろしながら、ぽりぽりと頬を掻いた。
「あー……おふたりさん、仲良くお取り込み中のところ悪いが、そろそろ話せるか?」
「あ、どうぞー」
 含みのあるフランスの表現をさらりと流し、ロシアがあっさりふたりを招き入れる。慌てたのはプロイセンだ。
「げっ! ちょ、おまっ、なにいきなりOK出して……」
「もう顔合わせてるんだから、いいでしょ。どうせ明日には仕事で会うんだし」
 ほら、とロシアに左肘を引っ張られ、プロイセンはなかば受動的に上半身を起こした。
 ドイツが気難しい顔をしてこちらを凝視してくる。居たたまれないことこの上なかった。


他己紹介、自己紹介

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