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出席を巡る攻防


 肩を怒らせ大股でロビーを通過したプロイセンは、男子トイレに入るとまだ腹が収まらない様子で自分の頭髪をがしがしと掻いた。
「フ・ラ・ン・ス……! あの変態男がぁぁぁぁ! あーいうことは腐れ縁のブリ公かスペインあたりにやってりゃいいだろうが! なんで俺までこんな目に……あー、もう、ほんっと腹立つ」
 後続してきたオーストリアは、出入り口をまたぐように立った。なぜトイレに移動したのだろうと訝しく思ったが、すぐに謎は解けた。鏡の前に立ったプロイセンが、ズボンのウエストを正し、フランスから奪い返したベルトを閉め直している。ジャケットを羽織った状態では気にならなかったが、どうやら腰周りが緩いようだ。それを無理矢理ベルトで固定しているため、縦皺が何本も入っている。明らかにサイズの合わない服を着てきた理由は定かではない。
「くっそ……緩いズボン穿いてきたときに限って、ついてねえ」
 強引にシャツをウエストの中に突っ込んで調節する彼の声はあからさまに苛立っている。頭に血を上らせていたら、能率が悪いだろうに。
「お馬鹿ですね、過剰に反応するなんて。彼を余計喜ばせるだけでしょうが。長年の付き合いです、そのくらいわかるでしょう」
 ようやくズボンを元通りに直した(といってもジャケットの裾の内側で皺まみれになっているのだが)プロイセンは、ジャケットを着直しながら答えた。
「あのな、あの状況で冷静だったらそれはそれで問題ある反応じゃねえか?」
「ま、確かに……」
「で、俺に話ってなんだよ」
 ようやく本題に入ったプロイセンは、面倒くさそうに洗面台に手をついて半眼でオーストリアを見た。相手は眼鏡のフレームに軽く触れると、話を切り出した。
「いえ、ドイツが欠席というのが解せないもので、もう少し詳しく理由を聞きたいと思いまして」
「たいしたことじゃねえよ」
 プロイセンは即答したが、オーストリアは食い下がる。
「なら、どのくらいたいしたことないのかを聞かせてください」
「なんでおまえがそんなにあいつのこと気にするんだよ」
「あの頭がっちがちで融通の利かないドイツが会議に来ないなんて、それだけで異様です。あなただって、彼が説明書なしで平然と真新しい携帯電話をいじり出したら慄くでしょう?」
「それは……怖いな」
 肩をすくめて苦笑気味に同意するプロイセン。
「つまりはそういうことです」
 はぐらかしてもしつこく粘られそうだったので、プロイセンは答えてやることにした。本当はおまえなんかと話したくないんだが、と示すように手でしっしっと追い払うジェスチャーをしてから。
「わかったわかった。けど、ほんとにどうってことないエピソードしか話せねえぜ。実は今朝、珍しくヴェストが熱なんか出しやがってだな」
「ドイツが? ほんとですか?」
 オーストリアは眼鏡の下にある両眼の輪郭を思い切り歪めて聞き返した。驚いているというより、素性の知れない人物をじっとり観察するときのような、不信感たっぷりの表情だ。せっかく答えてやったのにその態度はなんだ、とプロイセンは不機嫌そうに彼をにらんだ。
「なんだそののっけから疑ってる顔は。ここで嘘つくメリットはねえぞ」
「いえ、あなたの言が信用しにくいというのも確かにありますけど、ドイツが病欠というほうが信じられないですね。あなたのほうがよっぽど風邪を引きやすいのに」
「さらっと嫌味言ったないま……」
 そうさ、どうせ俺のが経済弱いさ! とプロイセンは胸中で半分開き直ったが、さすがにこの男の前で言葉にしてしまえるほど自棄にはなっていなかったので、拳を握り締めてぐっとこらえた。オーストリアはプロイセンの手の甲の血管がいつもより浮き上がっているのを一瞥してから、話を続けた。
「で、本当なんですか、ドイツが熱発というのは」
「ああ。割と熱高かったぞ。鬼の霍乱ってやつだな。それでまあ、会議には俺が代わりに行こうということになったんで、こうしてここにいるわけだ。わかったか」
「それにしては来るのが遅かったですね。遅刻ぎりぎりに飛び込んでくるなんて。あなたの家からでも彼の家からでも、ここまでの距離に大差はないでしょう。連絡が遅れたんですか? 万に一つでも遅刻するのなら私に連絡を寄越しそうなものなのに」
 オーストリアは後半を独り言のように呟くと、納得しかねたように首を傾げた。
「なんかむかつくなその言い分。言っとくが、俺だって遅刻するつもりはなかったんだぜ。ここ十何年かサボりがちだったが、俺だってドイツの一員だ、会議に出るのも国としての尊い務めというもの、久々にスーツ着込んで書類受け取って出発しようとしたんだ。けど、そのときになってだな、なんか熱で朦朧としたあいつが無言で引き止めてきたんだ。それでまあ、ちっと置いていきづらくなってだな……寝付くまで待ってたんだよ。で、出発が余計遅れて、遅刻寸前にこっちに飛び込む羽目になったわけだ」
 オーストリアはしばらくの間プロイセンの饒舌に任せていたが、やがて呆れたため息をつくと、やれやれと首を緩く横に振った。
「プロイセン……嘘はもう少し上手につくものです」
「あんだよ、あいつが熱出したのは嘘じゃねえぞ。ただ、あいつはまったくかわいくないことに、代理を買って出た俺に向かって、『おまえを出すくらいなら俺が行く……!』とか言って強行に自分が出かけようとしやがった。それで押し問答になって時間とられてだな……もみ合った結果やつの熱がさらに上がり、まあ最終的に俺が出ることに合意したはいいが、その頃には遅刻ぎりぎりの時間になってたんだよ。あの野郎……もう少し俺を信用しろっての。俺だって長らくこういう仕事してたんだぞ」
「そのときの光景が目に浮かぶようですよ」
 いまプロイセンが説明した内容が脳裏で鮮明に映像化されていくのがわかり、オーストリアは苦笑半分に眉を下げた。彼らのことだから、もみ合いというのは誇張ではなく、本当に取っ組み合ったのだろう。しかし、プロイセンがここに来たということは、ドイツが負けたか折れたかしたということだろうか。それはちょっと考えにくい、とオーストリアが思ったとき。
「これが事の顛末だ。納得したか? じゃあな」
 プロイセンが彼の横を過ぎて廊下に出て行った。
「ん……? ちょっとお待ちなさい。いまの話だと、あなた、ドイツの家に寄って行ったんですか?」
「いや、寄ってはいない」
「だって、ドイツと格闘したってことは、彼の自宅まで行ったんでしょう?」
 オーストリアが尋ねると、プロイセンは足を止めてポケットに両手を突っ込んだまま首だけを振り向かせた。露骨に眉をしかめ、そろそろ会話を切り上げて飯にしたいんだが、と暗に告げる。
「行ったには行ったが、昨日のことだ。ゆうべは泊まったからな」
「泊まった?」
「ああ。俺がいて幸いだったな。ひとりだったらあいつ絶対熱おしてこっちに来てただろうから」
「彼はゆうべから具合悪かったんですか?」
 だから泊まっていったのだろうか、とオーストリアは思ったが、プロイセンはあっさりと首を横に振った。
「いや? 元気だったと思うが」
 それだけ答えると、プロイセンはこれでお開きだ、と首をすくめて示し、その場をあとにした。
 残されたオーストリアは横髪を掻きながらここへ来てからの会話を頭の中で再生した。腑に落ちない点がなくはなかったが、とりあえずプロイセンのズボンの縦皺の理由については察しがついた。


いろんな意味で心配する

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