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会議が踊る前


 オーストリアは、まもなく会議がはじまろうという時刻になってもなお、会議室の外にいた。エレベーターの前で階数表示の動きと時計の針を交互に眺めている。いい加減に席につかないと、ハンガリーが心配するし、議長国がやかましく説教をしにくるかもしれない。しかし彼にはそれ以上に気がかりなことがあったので、こうしてエレベーターの扉の前に突っ立って、いらいらしているのだった。
 ドイツがまだ来ていない。
 彼がこんなぎりぎりになってもまだ到着しないなんて、前代未聞と言ってもいい。仮に遅刻するとしても、彼なら事前に連絡を寄越すはずだ。ドタキャンはまずあり得ない。だから、これは明らかに尋常でない状況だ。いったいどうしたというのか。連絡できないような不測の事態に陥っているということか。
 待ち続けるというだけでも忍耐がいるのに、その上不穏な想像が絶えず頭の中に浮かんでは消えていく。あのお馬鹿さんが……と胸中で毒づいたとき、視界の端に会議室のドアの向こうからこちらを心配そうに見つめてくる視線に気づいた。ハンガリーとイタリアだった。ふたりはどうしたらいいかと迷った様子でオーストリアを見ていた。彼は、心配しないで早く着席しなさい、というように、軽く手を上げて合図した。もっとも、自分もそろそろ会議室に入らなければならない。携帯電話の電源を切る。着信はやはりないままだった。
 はあ、とため息をひとつついたところで突然、ばんっ、と乾いた音が響いた。音源を定位すれば、フロアの片端にある非常階段の扉が勢いよく開かれたのが見えた。
 金属製の重いドアの向こうから現れたのは。
「プロイセンではありませんか」
 息を乱したプロイセンだった。どうやら十階まで階段で駆け上ってきたようで、少し苦しそうに上体を屈曲させて呼吸を整えている。淡いグレーのスーツ姿で、ネクタイもきっちり締めている。オーストリアと大して変わらない衣装――つまり、この場にふさわしい服装である。彼は意外そうに目を見張った。すると、投げられる目線に気づいたプロイセンが顔を上げた。途端に、彼は嫌そうに顔を歪めた。
「げ、オーストリアかよ。なんだよ、せっかく裏階段使ったってのに、いきなりいちばん見たくない顔見ちまった……くっそ、ついてねえ……」
 いきなり悪態をつくプロイセンに特に気分を害したふうでもなく(慣れの成果だろう)、オーストリアは口を開いた。
「ここで私と顔を合わせるのは当たり前のことですよ、これから欧州会議なんですから。で、今日はどうしたんですか。あなた統一以来、こういう仕事はドイツに任せっきりで家で寝ているでしょう、いつもなら」
「俺が来ちゃいけねえってこともねえだろ。俺だってドイツだぞ、忘れてんじゃないだろうな」
 プロイセンは親指をぴっと立てて自分の胸の辺りを指した。オーストリアは肩をすくめた。
「残念ながら鮮明に覚えていますよ。まあ確かに、あなたが来てはいけないということはありませんね。あの子たちもたいてい兄弟で出席しますしね」
 オーストリアがそう言うと、プロイセンは思い出したように顔を輝かせた。少し声が弾んでいるのは、息が切れているからではないだろう。
「あ、そうだ、ここならイタリア絶対いるよな。来てるだろ? この時間ならさすがにあいつでももう中か……控え室どこだ? この会議って休憩時間あるだろ?」
「故意に会いに行くのは遭遇とは言いませんよ、プロイセン。……珍しく姿を見せたと思ったら、もしかしてそれが目当てなんですか」
「ああ? 俺は公私混同はしねえぞ」
「さっき思いっきりしていたように感じられますが……ま、いいでしょう。どうせあなたの言うことですしね」
 オーストリアはさらりと流すと、話題を転換するようにきょろきょろとあたりを見回した。しかし廊下には彼らふたりのほか、青い制服を着た守衛が数名いるだけで、目的の人物は見当たらない。
「ところで、ドイツの姿が見えないようですが。一緒に来たのではないので?」
「ふたりで来る必要ないだろ、いまは一国なんだからよ」
「つまり、今日はあなたが正式な出席者ということですか。代理、という言い方は適切ではないですしね」
「そういうこった。じゃ、話はこれで終わりだ。こんなとこでまでおまえの顔見るの、嫌だからな」
 プロイセンはさっさと会議室に入ろうと足を進める。が、オーストリアがそれを留める。
「お待ちなさい。これを」
 と、彼はプロイセンにA4サイズの茶封筒を渡した。
「なんだよ」
「会議前に行われた事前説明の資料と記録です」
 プロイセンは礼を言うでもなく、ふーんと興味なさげな相槌を打ったが、それでも一応見ておこうと思ったのか、その場で封筒を開ける。中からは十数枚に及ぶ手書きの記録用紙が出てきた。
「記録……って速記かよ! このハイテク時代に!?」
 筆跡はオーストリアのものだった。トロそうな顔をして、妙な書記技能を持ったやつだ……とプロイセンは感心というより呆れ気味に、手書きの記録の文字を眺めた。
「ドイツ語ですよ。読めるでしょう」
「録音すりゃいいのに……おまえまじで無駄な労力使ってるな」
「遅刻しておいてその言い草ですか」
「好きで遅くなったわけじゃねえよ。実は今朝……」
 言いかけたところで、会議室から注意の声が届いた。
「おーい、もう会議はじまるぞー、いい加減席つけー!……って、あれ、プロイセン? なんでおまえが……」
 ドアからひょこりと顔を出したフランスが、プロイセンの姿を見とめて驚く。プロイセンは相手を見てこれまたおもしろくなさそうな顔をしたが、すぐに腕時計を見下ろすと、
「時間か。おい、入るぞ。せっかく間に合ったってのに、おまえとだべってたせいで遅刻になってたまるか。あいつにあとでどやされそうだしな」
 今度こそ駆け足で会議室に飛び込んで行った。オーストリアも小走りであとに続く。
 部屋の出入り口を通過するプロイセンの腕を掴み、フランスが尋ねる。
「珍しいじゃん、なんでおまえが?」
「うるせえ、俺が来てもいいだろが。ほら、会議はじまるんだろ、おまえこそ早く席に……ぅわぁっ!? てめーフランス! 何しやがる!」
「んー? そりゃおまえ、久々に会議の場で会った挨拶ってもんだよ。いやあ、相変わらずいい尻してるねー、おまえ」
 フランスは、いましがた相手の尻を撫ぜた手をいやらしい手つきでわきわきと開閉して見せた。
「ケツ触るのがフランス式の挨拶なのか? とんだ習慣だな、この変態!」
 久しぶりに会議に来たらさっそくフランスの洗礼を受ける羽目になり、やっぱり来るんじゃなかった……とプロイセンは早々に後悔したという。


会議の合間に踊る国々

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