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身内の特権


 一夜明けて冷静さが戻るとますます恥ずかしく感じられるのか、少年の白い頬にさっと朱が差した。彼は頭を抱えてうずくまりたくなる衝動を堪え、可能な限り平静を装い改めてプロイセンを見た。と、そこではじめて、相手が下着一枚であることに気づく。
「……あ、着替えの途中だったか。俺、もしかして寝坊したか?」
 ドイツは慌ててプロイセンから離れて体ひとつ分の距離を開けると、窓に視線を投げた。カーテンの隙間から差し込む陽光は、まだ弱い。プロイセンは肩をすくめた。
「寝坊どころかとんだ早起きだ。まだ夜明けだぜ」
 しかし、そんな早朝から起き出して着替えをはじめるということは、それなりの予定があったということではないのだろうか。ドイツは申し訳なさそうな顔をして居住まいを正した。
「トレーニングに行く予定だったのか? 邪魔をしたならすまなかった」
「いや、昨日まできついスケジュール組んでたから、今日は休養にあてるつもりだったんだが……」
 と、プロイセンは語尾を濁した。不自然に途切れた言葉に、ドイツがきょとんとする。
「どうした?」
 プロイセンは少年から露骨に目線を外すと、そっぽを向いてぽりぽりと後頭部を掻いた。十秒ほどのよどみのあと、彼は珍しくためらいがちに口を開いた。
「あのよー、ドイツ」
「なんだ?」
「ちと言いにくいんだが、おまえ、その……冷たくね? 背中とか、脚とか」
 ドイツは二、三度まばたきをしたあと、右手を自分の背に回した。
「冷たい?……そう言われてみれば……」
 寝巻きの背に触れた手の平から、湿った感覚がしみ込んでくる。同時に、布が押し付けられた背中にも緩い冷感が生じる。人肌よりもやや低い温度と濡れた感触は、腰のほうにも広がっていた。ドイツは信じられないといった面持ちでしばし硬直したあと、上擦った声を喉から絞り出した。
「あの……これってもしかしなくても……」
「うん、まあ……」
 プロイセンが柄にもなく遠慮がちに肯定すると、ドイツはものの見事に石化した。ピシリ、と音が聞こえてきそうなほど。そしてそのまま重苦しい沈黙に陥る。
「お、おい……?」
 粗相をやらかしたことのなさそうなタイプだけに、ショックが大きいのだろうか。氷結したまま動かなくなったドイツを前に、プロイセンが困惑しながら腕を伸ばす。フォローしようにも、どうしたらいいのかわからない。
 少年の顔が徐々に青ざめていった。そして、このまま昏倒するのではないかと心配になるほど血の気が引ききったあと、今度はさっと頬が紅潮してくる。
「う……うぁ……」
 唇を戦慄かせ、ドイツは震える声を発した。横から包むように自分の顔を両手で覆い、何度か口を開閉させる。そうして数秒が経ったのち――
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!」
 突然の奇声、あるいは絶叫が寝室をつんざいた。
「ド、ドイツ?」
 鼓膜を激しく叩く大音量に思わず耳を塞いだプロイセンが、驚きに上擦った声で少年を呼ぶ。いったい何事か、と。
 が、ドイツはプロイセンには応えず――というより、彼の声など聞こえていない様子だ――わたわたとその場で慌てふためきながら、自分が盛大に汚したシーツを引っぺがしはじめた。捲った先に現れたマットレスの惨状を眼前にすると、彼はひゅっと音を立てて息を呑んだ。ショックに追い討ちを掛けられたようだ。
 ドイツの唐突な行動を、プロイセンはなかば呆然と眺めていた。少年は安易な証拠隠滅に走るタイプではない(そもそも、相手の目の前で証拠を片付けるなど無意味な話だが)。虚を衝かれつつ、何をしたいのだろうと疑問符を浮かべるプロイセンの前で、ドイツはシーツを両腕で巻き取ると、胸も前で抱えてベッドから降りた。どうやら、後始末をしようとしているらしい。
「おい、別にそんな急がなくても。今日は休みだし、ゆっくり片せば……」
 プロイセンが濡れた寝巻き姿のまま部屋の外へ出て行こうとするドイツを制止する。と、扉の前ではっとしたドイツが大慌てで振り返ってきた。そして、深く息を吸ったあと、
「すっ、すすすすす、すまない、悪かった!」
 そのまま床にめり込みそうな勢いで深々と頭を下げて謝った。謝罪が遅れたことで、少年はますますちぢこまっているようだった。
「や、そんな改まらなくても……」
 これが気に食わない連中――たとえばオーストリアやフランス――だったら腹を抱えて笑ってやるところだが、この子供相手にそのような衝動は起きなかった。いや、ちっとやそっとのことならそれなりに揶揄をしてやるだろうが、ここまで恐縮してすくんでしまっている少年にそんな仕打ちはできなかった。なにしろ、ドイツときたら、
「ごっ……ごめんなさい……」
 いまにも泣き出しそうな声で謝ってくるのだ。いくらかしゃくり上げながら。
「す、すぐに、すぐに、片付けるから……」
 ほとんど半べその状態で、それでもかさばるシーツを両手いっぱいに抱えて後片付けに従事しようとする姿がなんだか無性に健気に感じられ、プロイセンは胸中で、こいつかわいいじゃないか、と不謹慎な感想を漏らした。やれやれと苦笑しながらプロイセンがドアのほうへ足を向けると、ドイツはびくっと首をすくめてきつく目を閉じた。叱られる思ったのだろう。もっとも、ドイツは怯えはしたが逃げ出そうとはしなかった。叱責なり罵声なりを浴びせられるのは当然だと判断したのかもしれない。が、やはりそれなりの恐れは生じるのか、翳りの気配を感じるとより一層身をすくめた。
 数十センチ先でプロイセンがどんな顔をしているのか。次に口を開くとき、どんな言葉を発するのか。ドイツは審判を受ける心持ちで相手の反応を待った。
「なあ、片付けの前にとりあえず風呂行かね? 俺もたいがいびっしょびしょだしよ。洗うなら俺もつき合うぜ。この際一緒でいいだろ」
「へ……?」
 プロイセンは、小脇に抱えていた布の塊を目線で示した。ドイツは、下着姿の彼を改めて正面にとらえ、愕然とした。
「も、もしかして、あんたにまで……?」
 被害が及んだということか。
 目を見開き、うつろな声音で尋ねてくるドイツに、プロイセンは小さくうなずいて見せた。ごまかしたところで何の慰めにもならないだろう。
「……まあ、そういうことだな。背中冷たくて目が覚めたんだ」
「う、うあぁぁぁぁぁぁ……」
 ドイツはとうとう頭を抱え込むと、その場にうずくまるようにして丸まった。恥ずかしさと申し訳なさから、言葉にならない声ばかりが漏れる。プロイセンは彼の前で膝をつくと、左手で軽く肩に触れた。
「んな半べそにならんでも……怒ってねえから。顔上げろ。な?」
 普段の高圧的な響きが鳴りを潜めたプロイセンの声は、別人かと錯覚するくらいには、優しかった。だがそれさえ、自己嫌悪と罪悪感にうずもれたいまのドイツには届かなかった。
「ごめん、本当に、ごめんなさい……」
 ドイツは顔を上げることができず、うつむいたままふるふると首を左右に振りながら、ひたすら謝罪を繰り返す。少年のあまりの強縮ぶりに、プロイセンのほうが弱ってしまう。前日に引き続き、こういうときの対処法がわからない。養育者失格だな、と彼は心中で自嘲した。そして、自分の中の動揺をごまかすようにぽりぽりと頬を掻きながら、
「んー……まあ、なんだ、とにかくまずは風呂に行こうぜ? おまえもそのままじゃ冷たいし、気持ち悪いだろ。ほら、脱げよ」
 少々強引にドイツの体を起こさせた。寝巻きの裾を引っ張って脱衣を促すが、少年は気持ちがすくんでしまっているためか、動けないでいた。プロイセンは長々とため息をついたあと、仕方なくドイツの寝巻きのボタンを外し、左右の合わせを開いた。すっかり濡れて重くなった衣類を取り払って全裸にしてしまうと、クローゼットから取り出した新しいバスタオルを少年の体に被せた。
「んじゃ、風呂行くぞ、風呂。ここのバスタブは広くて快適だぜ?」
 プロイセンは片腕で軽々とドイツを抱き上げると、空いたほうの手で汚れた服や寝具を回収し、寝室に設えられた浴室へと足を向けた。失態続きでおおいにへこんでいる少年にちょっぴり同情しつつも、ほかの人間には見せないであろう姿を自分の前でさらしていることに、ある種の感慨と優越感を覚えないではなかった。


頼れるひと

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