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散々だった日


 夜明けとともに開始された陸上戦闘訓練は、正午過ぎに終了した。ドイツは屋外の休憩所から着替えを持ち出すと、少し離れた木陰で汗や泥や油や火薬に汚れた戦闘服を脱いだ。上半身裸になると、彼は重いため息をつきながらどろどろの戦闘服を裏返し、軽く丸めて地面に置いた。べたつく体を拭くため、用意した清潔なタオルに手を伸ばそうとしたとき、訓練で疲れきった膝がかくりと折れて不自然に前傾仕掛けた。まずい、転ぶ。他人事のように冷静に感じながらも、疲労に満ちた体は受身はおろかバランスを保とうとする反射すら放棄していた。視界を占める地面の割合が増加していく。が、地面と痛い口づけを交わす前に、体の加速は止まった。
 一瞬遅れてはっと顔を上げて振り返ると、背後から自分よりずっと背の高い大人の影が下りていた。逆光のため顔はよく見えない。
「どうした、ぼうっとして」
「あ……」
 プロイセンは掴んでいたドイツの二の腕を引くと、くるりと体を反転させてからバランスを取り直させた。彼は木の根元に引っ掛けられるようにして置かれたタオルをひょいと掴むと、疲労困憊の表情を隠せないでいるドイツの頭にそれをかぶせた。白いもので視界を遮られた少年は、思わずタオルを払おうと右腕を上げた。が、その手は目的を成す前に別の力に引き寄せられた。まだ細い子供の腕は、大人の指が簡単にひと回りする。
「ちょっとこっち来い」
 そう言うと、プロイセンはドイツの腕を引いて兵舎のほうへつま先を向けた。
「ちょ、プロ――」
「いいから。こっちだ」
 プロイセンはやや強引にドイツを引っ張ると、兵舎の裏口の近くへ移動した。北側に面したその場所は、建物に陽光を遮られ少し陰気な雰囲気だった。壁際にドイツを軽く放るようにして追いやったあと、プロイセンは彼の真正面に陣取り、腕組みをして仁王立ちになった。表情がいつになく剣呑だ。お馴染みの、せせら笑うような軽薄な調子は鳴りを潜め、重苦しい空気がその場に鎮座する。ああ、怒らせてしまった――ドイツは恐怖よりも自分への失望感を覚えながら緊張に体を縮ませ、ごくりと唾を飲み込んだ。自分の内部から響く嚥下の音が不気味なくらい生々しい。普段はおとなしく冷静な少年が見せるあからさまな狼狽の色を、しかしプロイセンは冷たいまなざしで射抜いた。いや、表面的にはそれは凍結した水面なのかもしれないが、その内側には激しい烈火が渦巻いているようだった。彼が一言も語らないうちから、ドイツは恐縮した。というのも、少年にとって彼の怒りの原因と理由が明白だったからだ。
 断罪を受ける覚悟を決めた者のようにうなだれ、微動だにしなくなった少年の金髪頭に向けて、彼は視線と同じくらい温度のない声で乱暴に言った。
「おまえ、さっきの訓練のザマはなんだ? 模擬とはいえ銃火器扱ってんだぞ。少しの気の緩みがミスにつながる。自分だけでなく、他人も巻き込む恐れだってな」
「も……申し訳、ありません……」
 ぎくり、とドイツは首をすくめた。彼の咎めがもっともであることは、ほかならぬ少年がいちばんよく理解していたから。
 今日の訓練は、少年にとって散々な結果に終わった。シンプルな命令さえ聞き違え、武器の扱いもぞんざいで、いままでにないような単純なミスを犯し、ともに訓練した兵たちの足並みを乱し、何より終始集中力を欠いていた。
 闇に葬りたいほど最低だった訓練の記憶は、しかしほんの数時間前のことだ。それゆえ少年は自分の醜態をまざまざと思い出すことができたし(というより、脳が勝手に近時記憶を再生してしまう)、そのときの自分を鋭く見つめていたプロイセンの眼を忘れることができなかった。
 いますぐ蒸発してしまいたい。切な思いを胸にしたドイツだったが、生憎水蒸気になれるはずもなく、青年が見下ろす先で身を硬くするだけだった。
 相手を恐れる気持ちより、むしろ自分への羞恥と情けなさからすくみきっている少年に、プロイセンがぶっきらぼうに短く尋ねた。
「原因はどこにある」
「お、俺……です」
 どもりながら答えるドイツの声は、わずかに潤んだ響きを含んで震えていた。だがプロイセンは容赦なく追及する。
「抽象的過ぎる。他人にもわかるように話せ。自分にしかわからない言い分を説明と呼べると思うか?」
 プロイセンの厳しい言葉が頭上から降ってくる。ドイツはますます恐縮して自分の足元を見つめた。膝が震えるのは疲労のためばかりではないだろう。しかし少年は萎縮する体を叱咤してぴんと背筋を伸ばすと、踵を揃えて直立不動の姿勢をとった。そして思い切って顎を上向け、プロイセンからの視線を返すように振り仰ぐ。
「おっ……俺の自己管理不足が原因ですっ。そのせいで……仲間に迷惑を掛けました。本当に、申し訳ありませんでした」
 ほとんど叫ぶように説明と謝罪を伝えた少年を待ち構えていたのは、痛いほどの沈黙だった。プロイセンは何かを推し量るようなきつい目つきでドイツを凝視してくる。視線に縫いとめられた場所が、じりじりと焦げ付く音を発しているような錯覚が生じる。冷たさと熱さが共存する青年の瞳から、ドイツは顔を背けることができなかった。
 やがてプロイセンはすっとまぶたを下ろして、底知れぬ感情の波が蠢く双眸を閉ざすと、
「話がある。来い」
 再びドイツの右肘のあたりを乱暴に引っ掴み、有無を言わせぬ調子で命じた。いつの間にか、ドイツが脱いだ服が彼の腕の中に回収されていた。
「は、はい……」
 答えたときにはもう、少年の体は大人の腕に引きずられ、兵舎の出入り口の内側へと消えていった。

*****

 大人の広い歩幅に、少年は自分の歩調を保てず、転倒しそうな覚束ない足取りで廊下を進んだ。前を歩くプロイセンの表情は見えず、ただ左耳が色の薄い金髪の合間からちらちらと覗くだけだった。 きっと怒らせてしまったのだろう。自省とともに不安に駆られた少年は、どこへ行くのかと聞くこともできないまま、ただ腕を引かれるがままだった。
 プロイセンは一階の西にある仮眠室の扉を突き飛ばすよう荒さで開くと、向かって左にある粗末なベッドの上に少年を放った。薄っぺらなマットレスは最低限の弾力しかなかったが、青年の力加減がうまかったのか、それほどの衝撃は感じなかった。しかし、大きく体勢を崩されたことは事実だ。右半身を伏せるようにして倒れ込んだドイツは、両手をマットレスについて腕を突っ張り、体を起こそうとした。が――
「わ!?」
 突然暗くなった視界と、体幹が急速に後方へ崩れていく浮遊感に素っ頓狂な声を上げた。数秒の時間差で額が感じている触覚が認知される。
「プロイ……セン……?」
 視界にできた隙間から、天井と思しきくすんだ茶色が見える。そこでようやく、ドイツは自分が仰向けに倒されていることを自覚した。視野を遮っているのは、人間の手。彼はプロイセンの手に額ー―というより頭蓋上部全体――を覆われるようにして押さえつけられている。視界に隙間をつくっているのは指の股だろう。プロイセン本来の力を鑑みればけっして強くはない押さえ方だが、ひどく高圧的な雰囲気を纏った彼の指先に、少年はただならぬものを感じて引きつった声を上げる。
「ど……どうしたんだ、いきなり?」
 怖い――というよりひたすら不安だった。プロイセンは確かに粗暴だが、道理に適わない行動を取るようなタイプではない。彼の行動にはなんらかの必然的理由があるはずだが、それが何であるのか、ドイツには見当がつかなかった。予測不能な事態への漠然とした不安感が少年の心を覆う。さして恐怖を感じないのは、彼が自分に危害を加えることはないという信頼感がなせる業かもしれない。が、このときの少年にとってそれは意識に上らないことだった。
 抵抗の素振りも見せず、ただ困ったようにベッドに四肢を投げ出し、プロイセンの片腕で押さえつけられている少年は、さながら標本の蝶だった。暴れる気配がないことを確信したプロイセンは、そっと相手の額から節くれた指を離した。怪訝そうに小刻みなまばたきをしてこちらの意図を問うてくる少年を見つめるプロイセンの両眼は、やはり険しいままだった。
 と、急に距離感が変化した。青年の不機嫌そうな顔が、眼前いっぱいに広がる。
 唐突に接近したプロイセンの顔に、ドイツは驚いて思わずまぶたを下ろした。攻撃を受けたときに視界を閉ざさないよう、こうした閉眼を自制するよう訓練はされているのだが、いかんせん反射なので完全にコントロールすることはできない。少年の両目はぎゅっと強く瞑られている。
 ふいに鼻先に生温かさとくすぐったさを感知して、ドイツは恐る恐るうっすらと目を開けた。妙に薄暗く、また窮屈さ感じる。が、なぜか心地よさが合った。
 疑問符を浮かべながらまぶたを持ち上げると、その仕種に気づいたのか、相手もまた首を引いて少し距離を取った。鼻と鼻がかすかにこすれる感触を覚えたとき、プロイセンの額が自分のそれに押し付けられていたことがいまさらのようにわかった。離れた顔の代わりに、今度は荒れてがさついた青年の手の平が少年の頬を覆う。
 どこか潤みのある瞳でぼうっとこちらを眺めてくるドイツに、プロイセンは大きなため息をついた。
「やっぱり。熱、高いじゃねえか」
 少年はそこでようやく、目の前にいる大人の顔が怒りというよりは渋面で彩られていることに気がついた。


いつもどおりのすれ違い

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