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触れ合うこと


 体がじめじめとして、寝苦しい。気持ち悪い。
 強烈ではないが、絶えず付き纏う不快感が微妙に耐え難く、ドイツは視界を閉ざしたまま、ゆるゆると身じろいだ。う、と自分の喉が小さな呻きをつくったのがわかった。いまだ意識は霞の中だが、重力の感覚や位置覚から、自分の体が仰向けになっていることはなんとなく知覚できた。皮膚に纏わり付くべたついた感覚も。
「んん……」
 体の表面に感じるむっとした熱さと湿り気が嫌で、少年は露骨に不快そうに眉根をしかめた。ひとりでに漏れ出た声が妙に機嫌の悪そうな響きを帯びていることを、彼は他人事のように感じた。
 いったいここはどこなのだろう? 本の中でしか知らない、ずっと南にあるという鬱蒼とした密林の中に迷い込んだのだろうか?
 突拍子もない想像がぼんやりとした脳裏に現れては去っていく。想像が働くようになったということは、覚醒に近づいているということだ。徐々に意識が浮上するのと引き換えに、鈍い頭痛と頭重が襲ってくる。まぶたの裏側がちかちかする。なんだか痛いような気がして、彼は開きかけていた目を再びぎゅっと瞑った。と、ふいに自分ではない声が上から降ってきた。
「お、目ぇ冷めたか。調子はどうだ? 熱はだいぶ下がってきたみてえだけど」
 頬にひんやりとした冷感が生じる。冷たいが、柔らかくもあるその感触が無性に心地よい。ドイツは自分からその感覚のするほうへ頬を摺り寄せると、うっすらとまぶたを持ち上げた。暗がりの中、視界の左半分に濃い陰が映る。
「プロイセン……? いるのか……?」
 相手の姿が見えたわけではないが、ドイツはほぼ断定的にその名を呼んだ。
「ああ、俺だ。ここにいる」
「くらい……いま、なんじ? ここは?」
 幼児のような舌足らずな口調で尋ねてくるドイツに、プロイセンは穏やかな、けれどもしっかりとした調子で答えた。
「もう夜中だ。ここはおまえの部屋だよ。おまえ、あれからずっと寝てたんだ」
「あれ、おれ、兵舎にいて、それで……」
 ずっと眠りの淵にいたため、時間の感覚がないらしい。ドイツは状況を把握できず、覚えている範囲の出来事を混乱気味にぽつぽつと呟いた。プロイセンはドイツの額からなかば乾きかけの濡れタオルを取ると、ナイトテーブルの上の水を張った洗面器にそれを浸した。水分をたっぷり含んだ布をきつく絞りながら、プロイセンは簡潔に説明した。
「高熱のところにあんなふうに興奮したりすれば、そりゃぶっ潰れるわな。ったく、心配させやがって。全然目ぇ覚ます気配ないから、ちょっと焦っちゃっただろ」
 まだぼうっとする頭では、彼の話はスムーズに入ってこなかった。ドイツは熱で鈍った思考回路を右往左往しながらも、おぼろげに状況を掴みはじめた。
「あんたが、ここまで運んで……?」
「おう。こっちのが落ち着くだろ。あ、そうそう、おまえ、ちょっと大きくなったか? 抱き上げたときに思ったんだけどさ、前より重くなってたぞ。いいことだ」
 嬉しそうに笑うプロイセンのそばで、ドイツは緩慢な動作でなんとはなしに布団の中から腕を引き出した。と、その腕が見慣れたコットンの柔らかい生地で包まれていることに気づく。
「着替えもあんたが?」
「ああ。汗かいてる上に泥まみれじゃ不潔だろ。体拭いて下着も全部取り替えといたから大丈夫だ。つっても、そのあとも熱のせいで盛大に汗かいてたから、べたついてるかもな」
 プロイセンはなんでもないことのように説明するが、ドイツは少し驚いたように目を見開いた。
「え……それって、全部あんたが?」
「決まってるだろ」
 やはり即答するプロイセン。ドイツは急に気まずさを覚えて思わず布団の中に頭ごと引っ込んだ。
「う、うわ……」
 せっかく下がりかけていた熱が再燃するような気がした。もっとも、熱いのはもっぱら首から上ばかりなのだが。
 プロイセンは布団の端をぺろりとめくると、中で丸くなってプチ篭城しているドイツを覗き込んだ。
「なんだよ、気にするほどのこっちゃねえだろ。風呂だって一緒に入ったことあるじゃん。おまえの裸くらい見慣れたもんだぜ」
「そ、そうだが……や、でも、それとこれとは……」
「なんだよ?」
 なにやら妙にこだわっているドイツに、プロイセンが不思議そうに首をひねった。ドイツの反応の理由を心底理解しかねるといったように。
 もっとも、ドイツとしてもいまの心境を言語的に説明することは困難に思われたので、これ以上追及される前に、とっとと話を切り上げることにした。
「い、いや……なんでもない。ともかくすまなかった。手間を掛けさせた」
「こういうときはまず『ありがとう』だろ?」
 指摘され、そういえば感謝のひとつも述べていなかったことに気づいたドイツは、慌ててその言葉を紡いだ。
「あ、ああ……そうだな、ありがとう」
「よし。素直でいいぞ」
 プロイセンは満足げにうなずくと、布団の中に手を突っ込み、ドイツの背をさするように撫でてやった。その感触が心地よいのか、少年はとろんとまぶたを下げはじめた。
 が、ふいにプロイセンがその手を止め、前触れもなく布団をめくってきた。幾分温度の低い外気にさらされ、ドイツは思わず身震いした。
 いったいどうしたんだと疑問符を浮かべている少年に、プロイセンはいましがた彼の背に触れていた自分の手を見ながら言った。
「やっぱ汗すごいな。寝巻き、冷たいじゃん。なんならもっかい拭いてやろうか? ついでに着替えたほうがよさそうだな」
 思い立ったが早いか、プロイセンは相手の了承を得る前に、とっとと少年のパジャマを脱がしに掛かった。
「え!? い、いい! そこまでしてくれなくて!」
「でも、めっちゃ汗かいてるじゃん。そのままだと体冷えるし、それに気持ち悪いだろ。自分で触ってみろ。寝巻き、湿ってるぞ」
「う……た、確かに、気持ち悪い、かも……それに、すごく汗臭い……」
 改めて意識すると、汗で湿ったパジャマが肌にじっとりと張り付くような感じがして不快だった。においも気になる。プロイセンは、首をひねって自分の肩口に鼻を押し付けている少年をせっついた。
「ほら、我慢しないでさっぱりしようぜ。さ、脱いだ脱いだ」
「で、でも……」
「なんだよ、俺に脱がしてほしいってか? 甘えん坊だな〜」
 遠慮というか躊躇をしているドイツに、プロイセンはにやりと口元をつり上げて、ちょっぴり意地悪そうに言った。そして間髪入れず、少年のパジャマのボタンに指を近づける。
「じ、自分でできる!」
 急き立てられるように答えるドイツ。言ってから、しまったと思った。これでは脱ぐしかない。
 ドイツがおもしろくなさそうか顔で脱衣をはじめると、プロイセンは立ち上がって踵を返した。
「ちょっと待ってな。湯、取ってくっから。脱いだらとりあえず布団でも被ってな」
 彼は一旦部屋を出て給湯室やリネン室に立ち寄ると、やかんと洗面器、それから新しいタオルを持って戻ってきた。ドイツは彼の言いつけどおり、布団の下で裸になっておとなしく待っていた。これから洗濯に出すというのに、脱いだパジャマは折り目正しく畳まれていた。
 その几帳面さに小さく笑うと、プロイセンは洗面器に湯を張り準備をはじめた。湯気の立ち上る中、彼はタオルをたっぷりと湯に浸けてからぎゅっと絞った。その慎重そうな手つきを、ドイツは体を起こして妙に真剣なまなざしで見つめていた。自分のために、彼があれこれ世話を焼いてくれている――彼の真剣な横顔が、気恥ずかしくも嬉しかった。
 タオルを左手に乗せたプロイセンが、少年の腕を取る。
「最初ちょっと熱いと思うけど、我慢な。火傷するほどじゃねえから」
 そう予告してから、彼はドイツの肩から背に熱いタオルを当てた。
「ん……」
 急な熱の刺激に、思わず鳥肌が立つ。が、嫌な感覚ではなった。
 はじめこそ刺激のために反射的に緊張したが、ほどなくして慣れてくると、心地よさに体がリラックスしていくのがわかった。
「気持ちいいだろ」
「うん……」
 ドイツは眠りに落ちる直前のような、ひどくぼんやりとした表情でそう答えた。暖かく清潔なタオルに皮膚を清められる感覚はもちろん、体を支えてくれる彼の手の少し湿った手の平の感触もまた、少年をくつろがせた。もっとも信頼する大人に守られているという安心感がある。
 無防備に身を任せてくる少年の体を、プロイセンは丁寧に慎重に清拭していった。巡礼の道を歩く旅人の足を洗う聖職者のような厳かな瞳で。


そばにいて

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