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彼はどこへ行った?


 よく晴れた夏の日、海は人々を乗せた船を穏やかに揺らしている。どこまでも広がる深い青は、間近で見れば濃紺にすら感じられた。そして小さな波が浮き立ち、船の側面にぶつかっては飛沫の白をつくり出す。さらにその先、水平線の向こうには鮮やかな薄い青と、それをキャンバスに散る白い雲。ドイツはそれらが織り成す絶え間ないコントラストに夢中になり、柵に掴まっては下を覗き込んだり、また遠い水平線を眺めたりと、忙しなく視線を動かしていた。
「なに浮かれてんだ、さっきから」
 船の艫で前のめりになって立って物珍しそうに海を見下ろしていた少年の後頭部を、プロイセンが背後から軽くはたいた。彼の服装は、およそ夏の海の上とは思えない重装備ぶりだった。いや、普段の陸上訓練時と比べれば大分軽装なのだが。
「あ……すまない、きれいだったから、つい」
 叩かれた後頭部を手で押さえながら、ドイツはちょっとばつが悪そうに振り返った。子供じみた好奇心だと思われただろうか。
「いまは美的感覚を磨く時間じゃねえ。何のためにここまで来た? 答えてみろ」
 脚をクロスさせ、きっちりと履いたブーツのつま先でコンコンと叩いたあと、プロイセンはすっと直立してドイツに尋ねた。ドイツは回れ右をすると、青年と相似のような姿勢をとり、平生より大きな声で、少々堅苦しい言い回しで答えた。
「はい。海上訓練により、海上および船上で行動するための基礎能力を身につけるためであります」
「わかっているならそのように行動しろ」
「はい」
 プロイセンはそれだけ忠告すると、踵を返し舳先のほうへ足を向けた。ドイツは海と空の絶好の観察ポジションを去ることに名残惜しさを感じつつ、彼の後を追っていった。前日はじめて支給された帽子は少年の彼には少し大きく、急に動くとすぐにずり落ちてくる。彼は帽子を押さえながら小走りで移動した。
 水兵たちに合流したドイツは、彼らとともに整然と並び、照りつける太陽の下、直立不動で指示を待った。若者も多いが、みなドイツより頭ふたつ分ほども背が高く、狭い船上では少々圧迫感を覚える。いちばん後ろの端っこに立つドイツは、前列の水兵たちに埋もれてしまい、見えるのは彼らの背中ばかり。海も空も見えなかった。
 数分後、制服をきっちり留めたプロイセンが彼らの前に立った。彼は腰に手を当てると、いつもどおり大きな声で話し出した。
「今日は海上訓練を行う。海の、水の脅威を存分に味わい、対処する術を身につけろ。いいか、海は危険だ。訓練終了後も、陸に上がるまでは一時たりとも気を抜くんじゃねえぞ」
「はい」
「どうした! 覇気がねえぞ! もう一回!」
「はい!」
「よし、その意気だ! だが声が揃っていない! もう一回!」
「はい!」
 経験の乏しい若年兵たちに発破をかけ、何度も返事をさせたあと、プロイセンは訓練の指示を全体に出した。そして、正面に立っていた若者の襟首を掴むと、つかつかと柵のほうへ引っ張っていき、有無を言わさず彼を海に投げ込んだ。すると、右二列の兵士たちが自発的に移動を開始し、後列のものが前列のものを次々に海へと突き落とした。ためらいを見せるものは容赦なく、指揮を取るプロイセンに突き飛ばされ、海の深い青へと吸い込まれ白い飛沫を立てていく。陸上訓練でのプロイセンの過激さに慣れているドイツだったが、それでも呆気に取られてその光景を眺めていた。
 数分後には、船上に残されたのはドイツとプロイセン、そして他の上官だけになっていた。突然の翳りにふいにドイツが顔を上げると、眼前にプロイセンが仁王立ちをしていた。
「早くしろ。ひとりがもたついたら全員の時間が遅れて無駄になる」
「は……はい」
 ドイツは反射的に了解の返事をしたが、足がなかなか動かず、油の切れたからくり人形のようにぎくしゃくと右向け右をした。
 精彩を欠く彼の動きに、プロイセンは首を傾げた。陸ではもっときびきびと行動するのに。
「……? おまえ、今日なんかおかしくねえか? 船酔いでもしたか?」
 まあ、それだったら酔わなくなるまで船に乗せ続けるだけなのだが。そんなことを考えていると、ドイツがぼそぼそと答えた。
「いや、それは大丈夫だ。ただ、その……」
「なんだ。はっきり言え」
「海、はじめてだから、ええと……」
「声が小さい!」
 プロイセンが荒っぽい大声で注意すると、つられてドイツの声量も上がる。少年は、ほとんど怒鳴るような調子で言った。
「船で海に出るのははじめてのことであります! ほとんど泳げません!」
 だから怖気づいています、とまでは言わなかったが、動きの鈍い理由を堂々と白状するドイツ。海水に浸かったためしなどないのだ。だが、プロイセンは何食わぬ顔で告げた。
「そうか。気にすることはない。おまえは今日ここで泳げるようになる。そのための基礎訓練だ」
 そしてドイツを肩に担ぎ上げると、先ほどと同じように船の片端へ移動した。投げる気満々の体勢で彼は何の役にも立ちそうにない助言をする。
「まずは泳いでみろ。教えるのはそれからだ。行くぞ」
「ちょ、ま、待て……!」
 思わずプロイセンの服の背を掴んでその場に留まろうとするが、それを許してくれるような相手ではなかった。
「返事は!?」
 脅しのように声を張り上げるプロイセン。
「ヤ……ヤー!」
 条件反射で返事をした半秒後、少年の体は虚空に緩い曲線を描き、落下していった。

*****

 水兵を沖に放置し、船は移動していく。水中に置き去りにされた彼らは、必死で船を追って泳ぐ。それができないものは海の生き物の糧となるので、それはもう、皆死に物狂いだ。やっとのことで船上に戻ったかと思うと、再び順次海水に逆戻りさせられる。そんなことを数時間繰り返していると、いつの間にか岸に到着していた。
「はあ、はあ、はあ……」
 ずぶぬれの制服もそのままに、なかば漂流物の一部のように砂浜で倒れているドイツの元に、プロイセンが水筒を持ってやってきた。
「おう、ちゃんと泳ぎきったじゃねえか。はじめてにしちゃまあまあだ。水分はちゃんと摂れよ」
「あ、ああ……」
 全身の筋肉が疲労し、頭を上げるのも億劫だった。ドイツはまだ転がっていたい気分だったが、水分がほしいのも確かだったので、腕をついてのろのろと上体を起き上がらせた。
 プロイセンは彼に水筒を放ると、隣に腰を下ろし、少年の濡れた金髪をがしがしと掻いた。
「今日は全体的に動きが硬かったな。どうした、はじめての海で緊張したか」
「ああ……走るのはいいが、泳ぐのはどうにも。普段の生活で泳いで移動することなんてないし」
 水筒の口をひねりながらドイツが答える。水を思う存分吸った制服が疲労した腕に重くまとわりつき、蓋を外すだけでも苦労する。
「おまえは陸のが好きか」
「そうだな」
「まあ、俺もだけどよ。あんま得意じゃねえんだよな、海。嫌いじゃねえけど」
 へへ、と悪ガキっぽく笑う青年に、ドイツが目をぱちくりさせる。水兵たちを海に突き落とす彼の目は、どこまでも輝いているようだったのだが。
「そうなのか?」
「実は俺も昔カナヅチだったんだ。だから海、苦手だったんだぜ」
「本当に? どうやって克服したんだ」
「今日のおまえと一緒。ひたすら溺れ続けた。泳がなきゃ海の藻屑になって終わり、って状況になりゃ、そりゃ命がけで泳ぐだろ」
 乱暴すぎるプロイセンの理屈だが、当たり前といえば当たり前のことなので、納得せざるを得ない。
「だからまったく教える気がなかったのか……」
「口であれこれ指示したって習得できねえよ。泳法の理論はあれど、最後は体で覚えるしかない」
「あんたらしいな」
 まあ確かに、ものの数時間で水中での、それも着衣での移動方法を身につけることはできたのだが。
 と、いまさらながら、体が妙に重いことが意識に上ってきた。海水を飽和まで吸収した制服の繊維がべったりと肌に張り付き不快だ。ドイツはボタンを外して上を脱ぐと、塩気でひりつく皮膚に、水筒に残っている真水を掛けた。そして疲れた腕を持ち上げて服を絞った。膝元の砂にぼたぼたと水滴が滴るのを見下ろすと、どっと疲れが襲ってきた。
「はあ……」
 深々と息を吐くと、ドイツは絞って皺くちゃになった制服の肩を持ってパンッと小気味よい音を立てて伸ばした。
「なんだよ、ため息なんかついて」
 眉をしかめるプロイセンに、ドイツはなかば独り言のように呟いた。
「しばらく見たくないな、海……」
 マリンブルーや水平線、空とのコントラストなど、心惹かれる美しい景色は多くあれど、それ以上に荒々しい脅威を見せる場所。ドイツは目の前の広大な深い青から露骨に顔を背けた。
 その様子を見下ろしていたプロイセンは、しばしの沈黙のあと、おもむろに立ち上がった。そしてドイツの肘を掴むと、
「よし、ドイツ。ちょっと立て」
 上に引き、疲労困憊であろう少年を強引に経たせた。
「な、なんだ?」
 急に立たされ膝に力が入らない。足元がふらつくドイツは、プロイセンの胸に寄りかかりながら相手を見上げた。と、プロイセンがにっと口角をつり上げているのが見えた。彼は少年の腕を掴んだまま、波打ち際へと足を向ける。
「海、入ろうぜ」
「俺の話聞いてなかったのか?」
「聞いてたからこそ、だ。苦手意識なんかもつんじゃねえよ。この先、いつこっちに配属されるかわかんねえんだぞ。いまのうちから慣れておけ」
 勝手に追加訓練を決定すると、プロイセンは着衣のまま、ドイツを連れてずんずんと海へと入っていった。すぐに足の着かない深さになり、一瞬体が沈む。
「お、おい!」
 動揺した声を上げるドイツを無視し、プロイセンは片手で水を掻きながら沖へと進んでいく。すでにプロイセンの足も海底から離れているだろう。
 先ほどまで休んでいた砂浜が白いラインのように見える。ドイツはプロイセンの肩を掴んで浮きながら、不安そうに尋ねた。
「なあ、大分岸から離れてるが、大丈夫か?」
「さっきはもっと沖で泳いだだろ。こんくれぇ平気だって」
「でも、さっきは船があったじゃないか。体ひとつであまり陸から離れるのは……」
「なんだ、怖いのかよ」
 振り返りながらにやっと笑ってやると、ドイツが上擦った声で答えた。
「だ、大丈夫だ」
 怖いと言葉で認めるのは癪なのか、気丈な返事をする少年に、プロイセンはしれっと告げる。
「そんじゃ手ぇ放せ。練習にならん」
 言うが早いか、自分の肩を掴んでいるドイツの手を外させる。
「うわ!」
 一瞬後には、プロイセンは一メートルほど距離を取っていた。
「さっきの感覚を思い出せ。それなりに泳げてたぞ」
 ドイツは数秒方向感覚を失い、きょろきょろとあたりを見回した。プロイセンの姿を見つけると、離れるのが不安なのか、反射的に寄って来ようとする。が、プロイセンは後退しながら逆方向を指差した。
「こっちじゃない、岸に向かって泳げ。俺のほうに来ても陸には上がれねえぞ」
 ドイツは戸惑った表情を浮かべたものの、小さくこくんとうなずくと、方向転換して水を掻き出した。上を脱いでいる分、上半身の動きは先ほどよりもよい。
「よし、いい感じだ。もっと推進力をつけろ。進め!」
 立ち泳ぎで位置をキープしているプロイセンは、普段より力が入らずいつもより声量が出ないが、それでも可能な限りの大声で背後からドイツを激励する。
「まだ行ける! もっと進め! もっと行けるもっと行ける!」
 進めば進むほどプロイセンの声が遠くなり、ふいに不安になって振り返るドイツ。だが、次の瞬間にはプロイセンに注意され、首を戻さざるを得なくなる。
「振り返るな! 方向を見失うぞ! 海原に放り出されたら、太陽くらいしか道しるべがねえんだ!」
 背後から飛んでくる檄と指示に従いながら、ドイツは必死に泳いだ。ただひたすら、浜辺を目指して。
 五分ほど水を掻き分けることだけに集中していたドイツだったが、ふとあたりが静かなことに気づく。水面で水が撥ねる音、風の音、遠い汽笛は聞こえるが、人の声が一切ない。
「プロイセン……?」
 嫌な予感を覚えて、恐る恐る振り返る。誰もいない。腕を振り、水中で体を回転させ三百六十度見回すが、目的の人物が視界に映ることはなかった。影といえば自分のそれだけ。
 どくん、と心臓が跳ねる。
 こんな開けっ広げな、隠れるところなどどこにもない場所で姿がなくなるなんて。まさか、溺れた……? しかし、その気配さえない。水面は自分を中心に波紋が広がる以外、静かなものだった。小さな波で少し揺れるだけで、泡のひとつも浮かんでこない。自分を置いて、どこかに行ってしまったのか……?
「お、おい、プロイセン……!」
 その場に留まっていられず、ドイツはあてどもなく進み出した。岸に向かっているのか、それとも離れているのか、それすらわからなくなった状態で。消えたプロイセンの姿を探して。
 方向も進行距離も不覚のまま泳ぎ進む。と、突然右足が意図していない方向に動く。
「うわ!?」
 がくんと体が沈む。何かが水中で自分の足を引っ張っている。
(引きずり込まれるっ!?)
 状況が把握できず、ドイツは抗いもせずただ硬直した。驚愕と恐怖に全身が引きつり、悲鳴を上げる余裕さえなかった。
(プロイセン……!)
 助けを求めるように、心のうちで彼の名を叫んだ。どこへ行ったのか知れない彼の名を。


見つけた姿

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