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見つけた姿


 水面下に顎が沈む直前、急激な浮遊感がやって来た。
 一瞬前とは逆方向に体を突き上げられ、胸まで一気に海面上に出る。視界が上下に激しくぶれるが、跳ねた海水が目に染みて、どのみちはっきりとは見えない。ただ、体が外部から支持される安定感を得たのだけは感覚でわかった。
 と、耳の真後ろからそれまでまったく聞こえなかった人声が届いた。
「ぷはっ! あ〜〜〜〜……さすがに素潜りはきついぜ。久々だしなー」
 深呼吸の合間に響く、間の抜けたぼやき声。プロイセンだ。
 彼は海中で背後からドイツの腹に腕を回してがっちりと自分の体に寄せると、顔が水面につかないよう注意しながら立ち泳ぎをした。そして、ドイツの後頭部を見下ろしながら、先ほどの行動についての観察点を述べ出した。
「こら。泳ぐのに必死すぎて周囲に注意が払えてなかったぞ。だから俺が潜ったのに気づかないんだ。水中で俺が近づいたことにもな。油断してなくとも、ああいうふうに注意力を一極に集中させるのは危険――」
 プロイセンは後ろからドイツを抱いたままぺらぺらと忠告する。が、少年の反応がないことに気づき、ふと首を斜めに伸ばして相手の顔を覗き込む。
「ドイツ?」
 返事がない。
 それどころか、声に反応する様子がない。
 プロイセンはひやりとしたものを覚え、慌てて少年の口元に手を当てて呼吸を確認する。
「お、おい!? どうした!? み、水は飲んでねえはずだよな!?」
「う……」
 ほんのわずかなうめき声と、生暖かい呼気の流れを指先に感じる。
「よ、よかった……息してるな」
 プロイセンはほっと胸を撫で下ろす。が、それも束の間――
「う……うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
「うぉ!?」
 唐突に絶叫が上がったかと思うと、それまで脱力してほとんど動かなかったドイツが急に暴れ出した。それも、あらん限りの力で。
「あああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 体格差があるので力負けはしないが、体の安定しない水中で思い切り暴れられたら双方ともに危険だ。プロイセンはドイツの体を両腕でがっしりと固定する。しかし、突然加えられた力にドイツはますます恐慌状態に陥り、手足をばたつかせる。
「お、落ち着けドイツ! もう大丈夫だから!」
「……ィセン! プロイセン! プロイセン! うあああぁぁぁぁ!」
 ドイツはまだプロイセンが後ろで自分を支えていることに気づいていないのか、腕を前に突き出して必死に彼の名前を呼び、探し求める。完全に混乱している。
 プロイセンは危険かと一瞬ためらったものの、思い切ってドイツの体を離して水中でくるりと反転させ、顔を向かい合わせた。
「俺はここだ! しっかりしろ、落ち着け!」
 片手で背中を支えてやり、もう片方の手でドイツの顎を上向かせる。
「プロイ……セン……?」
 ようやくプロイセンの姿を視界にとらえたものの、まだ焦点が合わない。相手の存在を確認するように、少年は水中から腕を上げて彼の頬に触れようとした。
「おう。俺だ。大丈夫か? パニくっちまったみてえだな。珍しい」
 プロイセンはふらふらと伸ばされたドイツの手を握ると、しっかりと自分の頬に触れさせてやった。
「ここだ。大丈夫だ。な?」
「プロイ、セン……」
 ドイツは気が抜けたような小声でぼんやりと彼の名を呟くと、しばし強張った表情のまま彼を凝視した。
「大丈夫か?」
 尋ねてくる声がいつになく優しい。ドイツは急激に緊張の糸が切れるのを遠く自覚した。
「ふ……」
「ドイツ?」
 くしゃり、とドイツの顔がゆがむ。プロイセンが疑問符を浮かべたそのとき。
「ふ、ふぇ、え……あ―――っん!」
「うわ!?」
 ドイツが声を張り上げて、火のついたような勢いで泣き出した。かつてないほどの激しさだ。
「あ――――――っん!!」
「ちょ、ドイツ……!」
「あー、あー、あーっ……う、あ、あぁぁぁぁぁぁん!」
 宙を仰ぎ、顔を真っ赤にして、ぼろぼろと涙を流す。小さな子供のような泣き方だ。
「お、おい……ドイツ……」
「プロイセン! プロイセン! プロイセン!」
 名前を叫びながら、ドイツが思い切り首に抱きついてくる。プロイセンはバランスを崩されそうになりながらも、なんとか少年の体が沈まないよう抱きとめた。
 少しずつ岸に移動しながら、プロイセンは動かせる範囲で腕を上げると、ドイツの髪を撫でてやった。少年の外見相応の、いやそれ以上に幼い姿に驚きながらも、彼は動揺を押し殺し、平静を装って声を掛けた。
「あー……よしよし、ごめん。ごめんって。あれは俺が悪かった。全面的に悪かった。泳ぎ覚えたばっかだもんな、そりゃ怖かったよな。びっくりしたよな。ごめんな、ちょっと悪ふざけがすぎた」
「う……うっ……」
 ドイツはまだプロイセンに巻きついたまま、短い嗚咽を漏らしている。さすがにやりすぎたかと反省したプロイセンだったが、気まずさのあまり何を話し掛けたらいいのかわからず、つい軽くこぼしてしまう。
「いやあ、おまえならあんくらいやっても大丈夫かなー、なんて思って――」
「あぁぁぁぁぁぁんっ!!」
 その発言をどう感じたのか、落ち着いたかと思ったドイツが再び激しい泣き声を上げた。余程怖かったらしい。
「ご、ごめん、ほんとごめん! だ、だからそんな泣くな!」
「えっ、えっ、えっ……プロイセン……プロイセン……」
 先ほどから、意味のある単語といえばたったひとつの固有名詞だけ。まるでその語以外知らないかのように。
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながらプロイセンの肩に額を押し付けるドイツ。
「よ、よし、落ち着いたな? 大丈夫だな?」
「ふ、ふぇ……う、あ、あ……あ―――――っん!!」
 やはりまだ断続的に感情の激しい波が押し寄せてくるらしい。
 幼子のように泣きじゃくる少年に、プロイセンは大弱りした。子供を泣き止ませる方法など知らないし、ドイツが泣くということ自体はじめてのことだったので、対処法がまったくわからない。
 混乱したやつを水の中に置いておくのは危ない、と彼はとにかく岸へ向かって泳ぎ出した。しがみついてくる少年の体を離さないよう気をつけながら。

*****

 混乱を極めたドイツを連れて海から上がったプロイセンは、彼を抱いたまま浜辺に腰を下ろした。ドイツはプロイセンの服を握ったまま放そうとしない。
「弱ったな……」
 膝の上に乗せた少年の背を撫でながら、プロイセンはどうしたものかとため息をつく。ドイツは体を斜めによじった不自然な体勢になりながらも、プロイセンの肩に顔を埋め、離れようとはしなかった。少しでも距離が開きかけると、不安がってますますしがみついてくる始末だ。ひどく幼い姿だが、ここまで激しい反応だと、叱責することもできない。
「うっ、ひくっ、ひっ、ふ……う、うぅ……」
 これは下手に話しかけても刺激するだけだと判断し、プロイセンは何も言わずにしばらく放っておいた。抱き締める力だけは緩めずに。
 やがて嗚咽が小さくなっていった。プロイセンは腕の中の少年をそっと覗き込む。
「ちょっとは落ち着いたか?」
「ふ……あ、あ……」
「うん?」
 ドイツが何かしゃべろうと唇を開く。散々泣いたため、すっかり声がしわがれて、話しにくそうだ。プロイセンは相手の声が出るのを待った。
 何度か口を開閉させたあと、ドイツがようやく単語を口にした。
「あ……あんた、が……」
「俺が?」
 いったい何を言われるのかと、プロイセンはどきりとして少し構えた。
「あんたが……い、いなくなった、かと……思っ、た……」
「え……?」
 予想外の発言に、プロイセンは困惑した。てっきり、足を引っ張って脅かしたことについて、怒ってくるかと思っていたのに。
「あ、あんなとこで、見えなくなるなんて……こ、怖かった……! どこかに、行ったの、かと……」
 ひっく、ひっく、と興奮が鎮まりきらないまま、ドイツはぽつぽつと話し出した。どうやら、プロイセンが予告もなく潜って彼の前から姿を消したことのほうがショックだったようだ。
「おまえ……もしかしてそっちのほうで大泣きしてんのか?」
 意外そうに呟くプロイセンの胸を、ドイツが両の拳でドンと叩いた。
「なんで急にいなくなるんだ!」
 やっと泣き止んだかと思ったら、今度は怒り出した。こいつやっぱ力強いな、とプロイセンは少々むせそうになったのを堪えた。
「……悪い。ちょっと脅かしてやろうかと思っただけだよ」
「ちょっとじゃない!」
 プロイセンからしたらたいしたことはしていないつもりなのだが、ドイツの視点からすると相当ショッキングな出来事だったようで、珍しく感情をあらわにして声を荒げた。不安から安堵への心理的変化に対応しきれず、怒りというかたちを取るしかないのだろう。
「置き去りにされたと思ったのか? あのなあ、俺がおまえ残してどっか行くわけないだろ」
「でも、姿、見えなくなったじゃないか!」
 そこにいるはずの人物が見えなくなったことで、パニックになってしまったらしい。この子供は、想定外の事態に弱いのかもしれない、とプロイセンは推測した。
「それで不安になっちまったのか。そっか……まだ子供なんだっけ」
 ドイツの予想外の反応に驚きつつも、プロイセンは、俺がちょっと隠れただけでこんなに怒るなんてかわいいもんじゃないか、と本人が知ったらさらに怒りを煽りそうなことを思った。
 そのあとも、ドイツはプロイセンに対して腹を立てながらも、彼から離れることはなかった。むしろ、着替えたいからと言って体を離そうとするのさえ嫌がった。わがままを言うな、と叱り飛ばすべきなのかもしれないが、普段がおとなしいだけになんとなく物珍しくて、結局プロイセンは少年を引き剥がすことができなかった。


こどものこころ

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