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「彼はどこへ行った?」〜の翌日の話ですが、これだけでもおよその内容は通じると思われます。
ちょっときれいじゃない話が出てくるので、お気をつけください。独に申し訳ない感じの内容です。独好きの方はご注意くださいませ。





優雅でない朝



 ちゃぷん。
 小さな波が立ち、わずかに飛び上がった水滴が再び水面に戻る音が絶え間なく響く。飽和を超えた水蒸気が空間に充満しているが、この場所においてはそんな高温多湿こそ望ましいものだった。
 適温の湯気が立ち込める浴室の中では、ふたつの人影が陽炎のようにかすかに揺れていた。三分の二ほどの高さまで湯を張った浴槽の片端で軽く膝を曲げて座るプロイセンは、対側にへばりつくようにして膝を抱えている少年を見やった。プロイセンにとっては半身浴程度の水深だが、少年は肩ほどまで湯に浸かっていた。背を丸めて小さく丸まっているために本来よりも体が沈んでいる。彼は立てた膝の間に下顎を埋めるようにしてうつむいていた。あと三センチ顔を下げれば、湯を飲んでしまうことだろう。実際、時折水面下に唇をうずめては、ぶくぶくと控えめな気泡を立てている。その真上にある鼻先や頬は真っ赤っただ。血行がよくなった、だけで済ませるにはちょっと極端なくらい染まっている。どちらかといえばぬるいくらいの水温なのに。
 プロイセンはバスタブの縁に肩肘を乗せて頬杖をつくと、向かいで置物よろしく固まっているドイツを見つめた。少年を湯船に浸けてからかれこれ十五分ほど立つが、ずっとこんな調子だ。プロイセンと視線がかち合うのを避けるためか、すぐ真下にある水面を凝視したまま動かない。
 どう声を掛けていいものやら。
 とりあえず勢いのまま風呂場に連れ込んだものの、ここから先どう対応していいものか、プロイセンは頭を悩ませた。ふと思い立って両手を組んで半分ほど湯に沈め、少年に向けて勢いよく水鉄砲を飛ばしてみたものの、無機物のごとき無反応ぶりだった。はあ、とひときわ長くため息をついたプロイセンは、浴槽の底に片膝を立て、湯船の中を数十センチ移動した。ドイツはびくんと首をすくめ顎を湯に浸けたが、次の瞬間にはプロイセンの手に肩を掴まれていた。
「なあ、そんな隅っこでちぢこまってないで、もっとこっちこいよ。それじゃリラックスできねえだろ、せっかくの風呂だってのに」
 プロイセンが軽く肩を引いて促すが、ドイツは膝を抱えたままふるふると頭を横に振るだけだ。プロイセンは手の平ですくった湯を少年の髪に掛けると、
「ほら、こっち来いって。まだ髪も体も洗ってねえだろ」
 バスタブの真ん中あたりまで引っ張ろうとした。すると、ドイツはようやく少しだけ顔を上げた。見ると、プロイセンが手の中で泡を立てていた。その手が自分に近づけられる前に、ドイツがぼそりと言う。言葉を発するのは、浴室に入って以来はじめてのことだ。
「……自分でやる。あんただって、その、することあるだろう」
 ドイツは小さく身をよじってそそくさとプロイセンの手から逃れると、再びバスタブの端に寄り、その縁を握り締めた。恥ずかしさと気まずさでいまにも消え入りそうな彼の様子に、プロイセンは呆れつつも一応の理解を示す。少年の性格からして、この状況で開き直れるような図太さはないだろうし。
「そうか。じゃ、これ使え」
 プロイセンが石鹸を投げて寄越す。うつむいていたために反応が遅れたドイツはキャッチし損ね、水飛沫が立ち水面に波紋が広がった。彼はのろのろと水中で腕をさまよわせ、底に沈んだ石鹸を掴んだ。が、ぬめる石鹸は少年の手からするりと逃げた。
「あ」
 摩擦の小ささにより、石鹸は結構な勢いで浴槽の底をスライディングした。膝に小さな衝撃を感じたプロイセンは、苦笑しながらそれを拾い、今度は手渡ししてやる。
「ほらよ」
「あ、ああ……すまない」
 少年がおずおずと湯船から手を出すと、プロイセンが手の平に石鹸を乗せた。受け取ったドイツは両手でそれを軽く包むと、緩慢に泡立て始めた。いつもきびきびと行動する彼からは想像しにくいほど、動作が遅い。しばらく無言で眺めていたプロイセンだったが、やがて苦笑いを浮かべながら口を挟んだ。
「それじゃ全部洗い終わる前にのぼせるぞ?」
「ああ、気をつける」
 そう答えるものの、スピードは一向に上がらない。少年の横顔は、心ここにあらず、といった印象だ。何か別事に気を取られ、現実の動作が疎かになっている。一言で表すなら、そう、ひどくしょんぼりしている。落ち込む気持ちもわからないではないが、とプロイセンは胸中で呟いたあと、すばやく少年の後ろに忍び寄った。
「全然洗えてねえぞ、さっきから。来いよ、俺が洗ってやる。大サービスだ」
 と、プロイセンはドイツの胴を片腕でさらって自分のほうへ引き寄せた。一瞬後、ドイツは慌てふためきながら首を左右に振った。
「い、いい! 自分でできる!」
「遠慮すんな。この期に及んで恥ずかしがってどうする」
「うわ!?」
 ドイツを膝の上に乗せると、プロイセンは彼の頭に両手を当て、勢いよく石鹸を泡立て始めた。
「おまえ意外に髪ヤワいよな。すっげ泡立ちやすい。おもしれー」
「ちょ、い、痛い! プロイセン!」
 少年の細い金髪に絡んだ白い泡がみるみる増殖していくのがわけもなく楽しくて、プロイセンは手の中で容赦なく彼の頭を翻弄した。髪を洗ってやりつつ斜め後ろからちらちらとドイツの顔を窺う。その面は引き続き気まずそうにゆがんでいた。
 やっぱこいつにとっちゃ最大級の醜態だったか。俺はそこまで気にしてねえんだけど。
 ドイツの髪をいっぱいに覆う泡を洗い流しながら、プロイセンは今朝の出来事を思い返した。

*****

 背中に違和感がある。
 何の感触なのかはわからないが、それでも体表から伝わる不快感が意識に上ると同時に、強制的な覚醒が訪れた。気づかなければ心地よい眠りに身をゆだねていられたのに。
「ん〜……」
 眉をしかめ、低いうなり声を上げながら、プロイセンは寝返りを打った。まだ眠いのに、と目を覚ましかけている自分の頭に文句を垂らしながら。
 日ごろから鍛えた体内時計は、起床時刻にはいささか早すぎることを訴えてくるが、一度目覚めの方向に意識が浮上してしまうと、引き止めることは困難だった。まどろみを味わえないことに少々失望しながら、プロイセンはうっすらと片目を開けた。部屋はまだ暗い。が、暗闇というほどでもない。朝焼けに満たない紫色の空から差し込むほのかな陽光がぼんやりと室内を浮かび上がらせている。色はわからないが、物体は十分に認識できる程度も光量はある。
 まぶしさを感じないことを確認すると、彼は両のまぶたを上まで持ち上げ、色素の薄い瞳を覗かせた。違和感の正体を探ろうと、片肘を立てて状態を起こし、もう一方の手で自分の背中に触れる。と、ひやりとした感覚が指先から上ってきた。
「う〜、なんだこれ、つめてぇ……」
 寝巻きの腰のあたりを指先で引っ張ると、予想よりも重量があることに気づいた。同時に感じる冷感から、繊維が水分を含んでいるせいだと思い当たった。つまり、衣服が濡れている。
 ……濡れている? ここ、寝室だよな? 野戦キャンプじゃないよな?
 と、疑問が湧いた一秒後、ひとつの可能性が弾丸よりも高速で胸裏によぎった。
「ま、ままままま、まさか! これってもしかして……!」
 プロイセンは大慌てで体を完全に起こすと、ひと思いに掛け布団を捲った。下腹部から大腿部に掛けて左手で念入りに触れて、推測の正否を確かめる。
 果たして――触れた部分には先ほどのような冷たさも湿った感触もなかった。しかしそれでも疑念は晴れず、彼はズボンのウェストから手を突っ込んで中を確認した。そこまでしてようやく、彼はほっと安堵の息をつくにいたった。
「よ、よかった……濡れてない。お、俺じゃなかった……。はあ〜〜〜〜……まじでよかった、さすがにこの年で失禁はヤバすぎる。とことん加齢すればまた別かもしれねえけどよ」
 目で見てわかるほど肩の緊張を解きながら、なんとはなしに手の甲で額を拭う。冷や汗が噴き出た気がする。
「あー、朝から肝が冷えたぜ。一気に目ぇ覚めた。しかし、俺じゃねえってことは……」
 と、彼は斜め下を一瞥した。三分の二ほど捲られた掛け布団から、自分のものではない手足が飛び出している。まだ小さく細いそれは、明らかに子供のものだ。水分で重量を増した布団をそっと下げると、その下のシーツに不定形の大きな染みが広がっているのが見て取れた。
 まさかこんなことが。
 予想外の事態に狼狽するというよりは、何かこう、新発見でもしたような心持ちで、彼はほうっと息を吐いた。冷静に考えればなかなか悲惨な状況なのだが、不思議とヒステリックな気分は湧いてこなかった。


夜明けの騒動

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