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夜明けの騒動


 プロイセンは驚きに目を見張りつつ、シーツの染みに触れた。布は、自分の背中と同じように冷たく湿っていた。続いて彼は少年の着ている寝巻きのズボンに手を伸ばした。思ったとおり、ぐっしょり濡れている。それはもう、見事なくらい。洪水被害は上半身にも及んでいた。隣のプロイセンがとばっちりを受けるくらいなのだから、その規模は推して知るべし、である。
「やっぱこいつか。珍しいな、寝小便なんて。もしかするとはじめてか……? ゆうべ暗示かけたのがまずかったか。下手なこと言うもんじゃねえな。溺れる夢でも見ちまったかねえ」
 昨晩寝る前に少年に向けて言った、寝小便するなよ、という忠告は本気ではなかった。場を和ませるためのちょっとした軽口のつもりだったのだが――どうやら裏目に出てしまったようだ。預かって以来、粗相らしい粗相などしたことのない少年が、よりにもよって忠告を受けたその日にこの失態とは。呆れるというよりはひたすら驚いたプロイセンは、言霊などという怪しげなものをちょっぴり信じる気になってしまった。
 とはいえ、原因はほかにもあったのかもしれないが。
 こいつにとって、昨日はなかなか波乱に満ちた一日だっただろうし――それが自分に起因していることを思い、プロイセンはドイツに対し、いくらかの申し訳なさを感じた。あんなふうに泣かせるつもりはなかったのに。
 眠りにつく前に少年が見せた珍しい弱気が思い出される。夜中にうなされていた様子はなかったが、もしかすると悪夢を見たのかもしれない。できる限り気丈さを保っていたとはいえ、ゆうべの少年は潜在的にかなり怯えていた。もっとも、それは海や水という具体的な事物に対してではなく、隣にいる青年がいなくなるかもしれないという仮定から生じた恐怖によるものなのだが。
 それを思うと、プロイセンはなんだかくすぐったい気持ちになったが、悪い気はしなかった。
 場違いにも笑い出しそうになるのを堪え、彼は改めて自分のベッドを観察した。シーツの染みは少年の体の半分ほどもある。
「しっかし、盛大にいたしてくれちゃってまあ……隣の俺が背中びしょ濡れってどんだけ大洪水なんだよ。う〜、つめてー。こりゃ脱ぐしかねえな。マット、どこに干すかなあ……」
 ドイツ自身はもちろんのこと、横で眠っていた相手にまで甚大な被害が及んだ水害をどう処理したらいいものか。シーツやカバーは洗えばいいが、布団は簡単には洗濯できない。専門技術のある使用人に頼めばいいことだが、あれこれ妙な噂を立てられそうで気が引ける。この手の噂話は一日後には尾ひれ背びれがつくどころか、耳まで生えかねない勢いで発展するものだ。年甲斐もなく粗相したと思われるのは甚だ心外だ。
「んー、どうすっかなー……」
 悩みつつ、プロイセンは寝巻きのボタンを外して上半身裸になった。脱いだ衣服は案の定広範な染みが形成されていて、なかなかずっしりしていた。
「まあ、たまには洗濯夫ってのも悪くねえか」
 幸い、訓練日程は昨日で終了したので今日は休養日として一日オフになっている。窓の外はまだ薄暗いが、時刻と光の加減を考慮すると、いい天気になりそうだった。南側の窓辺にマットを立てかければ、日暮までにはなんとか乾いてくれそうだ。
 ベッドの縁に腰掛け、日も昇りきらないうちからそんな計画を頭の中でこねていると、ふいに背後から小さな息漏れが聞こえてきた。
「う……ん」
「お」
 肩越しに振り返ると、ドイツがもぞもぞと肩を動かしているのが見えた。お目覚めのようだ。どんな反応をするのか興味を引かれ、プロイセンはひとまず挨拶を控えて少年の行動を見守った。
 ドイツは眠たげに半分ほど開けた目で、のっそりと首を左右に動かしてあたりを見回しはじめた。何かを探しているようだ。
「……イセン?」
 寝起きのかすれた声で名前を呼ばれ、プロイセンは意外そうに目を見張った。まさか朝一番で呼ばれることになるとは思わなかった。
 ドイツはベッドに上で腕を動かしてプロイセンを探索しはじめた。寝そべっている少年の視界には、隅で腰掛けているプロイセンの顔は入らないのだろう。
 手の届く範囲に相手がいないことを察すると、ドイツは途端に不安そうな表情になり、両手を突いて身を起こした。
「プロイ……セン? どこ……?」
 名前を呼んで探し求める声音は弱々しかった。寝ぼけまなこに加えて視線が低いため、すぐにはプロイセンの姿を見つけられないようだ。プロイセンは体を斜めに回すと、片足をベッドに乗り上げさせながら返事をした。
「俺はここだ」
「……プロイセン。いた……」
 プロイセンの顔を見とめると、ドイツはほとんど這うようにしてベッドの上を移動した。そして、プロイセンの首に腕を回してきゅっと抱きつくと、ほっとしたように体の力を抜く。少年の体や衣類は湿っていたが、この状況下では、そんなことは些細な問題に過ぎなかった。
 素直というか、ある意味で本能に忠実だと思われる少年の行動に、プロイセンは呆気に取られながら目をしばたたかせた。
「ドイツ?」
 名を呼ぶプロイセンの声に安心したのか、ドイツは彼の肩に頭を乗せ、甘えるような声を立てた。
「ん……プロイセン」
 相手の体温に触れていることに安堵を覚えるのだろう。ドイツはプロイセンに体重を預け、再び眠りの淵へ落ちていった。
 正気だったら絶対に成しえないであろう離れ業を軽々とやってのけた少年の顔を、プロイセンは信じられない心持ちで見下ろしていた。あのドイツがこんなふうにわかりやすく甘えてくるなんて、天地を揺るがす大災害の前触れなんていうオチではないだろうか。そんな疑惑さえ浮上する。
「寝ぼけてんのか。昨日から珍しいことづくめだな」
 ひぇ〜だのほ〜だのまぬけな感嘆を漏らしながら、プロイセンはドイツの頬を人差し指で軽くついた。普段むっつりと表情を固めている少年だったが、触れてみれば子供らしい弾力と柔らかさがあった。安心しきった寝顔があまりに穏やかだったので、このまま寝かせておいてやりたいところだったが、そう悠長にもしていられなかった。なにしろ、ふたりそろって洪水被害に見舞われているのだ。嗅覚は目覚める前から環境に順応していたらしく、臭気はさして感じないものの、皮膚にまとわりつくべたついた感覚が不快でならない。彼はドイツの背に手を回すと、肩甲骨のあたりを軽く叩いた。
「おい、ドイツ、疲れてるのはわかるがいっぺん起きろ」
「う、ん……?」
 何度か体を揺すると、ドイツは頭を持ち上げてのろのろと双眸を開いた。澄んだ青空によく似た色が現れる。プロイセンはふたつの青い円を覗き込みながら、
「よお。目、覚めたか?」
 互いの鼻先がかするほどの距離でそう尋ねた。ドイツは数秒の間事態を把握しかね、きょとんとした顔でその場に固まっていた。
「え……?」
「おはよう」
「お、おはよう……? え、な、なんであんたが……あ、そうか、ゆうべ……。そうだ、ここ、あんたの部屋……」
 反射的に挨拶を返したあと、数フレーズの独り言を経て、ドイツは事態の大枠を掴んだ。もっとも、今朝方発覚した一大事件についてはまだ意識がいっていない様子だが。それでも、見当識を保っている点はさすがだとプロイセンは評価した。目覚めた場所がいつもとは違う部屋だった――その事実からすぐさま場所を同定し、昨晩の経緯を記憶から再生する。
「寝起きの割にはクリアーじゃねえか。正解だ」
 プロイセンはにっと笑って見せたが、その褒め言葉はドイツの耳には入らなかったようだ。前日の自分の姿が脳内でよみがえるにつれ、その情けなさに羞恥が湧き上がってくる。
「なんというか……昨日はいろいろすまなかった」
「それは別に構わないんだが」
 微苦笑を浮かべながら、プロイセンはそれとなく肩をすくめた。察しのいい子供は、相手の言わんとすることをすぐに理解した。
「……あの、もしかして俺、寝ぼけてたか?」
「覚えてるのか?」
「や……さっぱりなんだが。でも、この体勢……」
 明らかに《寝ていた》姿勢ではない。
 プロイセンの胸に寄り掛かるような格好で支えられていることに気づいた少年が、腕の中で身じろいだ。
「ああ、なんか俺のこと呼んだからよ、返事したら、おまえが巻きついてきたんだ。また俺がどっか行っちまったかとでも思ったか?」
 ふ、と苦笑にも似たため息をつきながら、プロイセンはドイツの頭に手を乗せた。ドイツは上目遣いに視線を寄越すと、
「覚えていないが、多分不安だった……のだと思う」
 ためらいがちではあったが、素直にそう認めた。昨日の一件で、ドイツは自分が思っていたよりもはるかに強く、プロイセンを頼りにしていることを自覚した。ほんの短時間、彼の姿が視界から消えただけであんなにも恐慌状態に陥るなんて、自分でも想像していなかった。とんだ失態だった。見苦しいにもほどがある。コントロール不可能なパニック状態だったというのに、記憶だけはいやに詳細に残っているのが恨めしい。大泣きをかました挙句、離れるのが怖くて寝るまでプロイセンにつきまとって、あまつさえ一緒に寝てもらうなんて。その上、寝ぼけて抱きついたらしい。
 ああ、もう、散々だ。
 ドイツは口元を押さえながら、押し寄せる恥ずかしい記憶の数々に耐えた。
 一方プロイセンはそんな少年を腕で支えながら、早く着替えさせないと体が冷えそうだ、と考えていた。肝心のドイツは、まだ事態に気づいていない様子だったが。


身内の特権

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