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時代は冷戦期で、普が露のうちで家政夫をしています。ややシモなコメディです。
ベラが大変申し訳ないことになっていますので、ベラ好きの方は特にお気をつけください。





家事は命がけ



 平日の午前中、プロイセンは広い屋敷の廊下を競歩のトップアスリート顔負けの速度でずんずんと進んだ。歩行というスタイルに固執しているのは、廊下を 走ってはならないというルールがあるためだ。肩や腰をアヒルのように振りながら、彼はキッチンを目指して歩き続けた。
 目的の部屋の出入り口に踏み込むや否や、彼は中の様子も確かめず、
「ベラルーシぃぃぃぃぃぃ!」
 本日の台所当番の名前を叫んだ。呼んだあとで人影を探して首を左右に振ると、湯気の立ち上るコンロの前で鍋に向き合う女性の後ろ姿が視界に入った。ロン グのワンピースの上に真っ赤なエプロンを掛けたベラルーシは、長い髪を珍しく後ろでひとつに束ねており、その下には真紅の三角巾の結び目があった。料理に 没頭しているのか、彼女はプロイセンの侵入に振り向くこともなく、一定のペースで玉じゃくしを回している。その肩が時折小刻みに揺れていることに気づいた プロイセンは、どうしたのかと怪訝に眉根を寄せた。
 泣いている? まさか。だとしてもどうせ玉葱オチだよな。いや、でも、切ってるときならともかく、いま煮てるとこだし……――思いがけない光景に遭遇し た彼は、キッチンに突入したときの勢いをそがれ、食器棚の陰に隠れて様子を窺った。この角度からなら彼女の横顔を観察できる。
 そうして目にしたベラルーシの顔には、笑みが浮かんでいた。その顔があまりに邪気に満ち溢れていたので、彼は思わずその場で固まった。
 彼女は深鍋から玉じゃくしを引き上げると、掬い上げたどろどろとした液体を再び鍋の中に垂らしながら、赤い舌で唇をべろりと舐めた。
「ふふっ……ふふふふふふふ……」
 再び彼女の肩が震える。妖しい笑い声とともに。
「おいしそうな色になってきたじゃない。まるでゾンビのゲロみたいでたまらないわ。このキノコがよかったのかしら。やっぱりキノコは自家栽培に限るわね。 ふふふふふ……」
 と、彼女はコンロの横に置いたボウルに手を突っ込み、やたらとトロピカルな配色をした謎の物体を摘み上げた。独り言の内容から察するに、キノコの残骸の ようだ。煮込み中のスープはやたらと黒っぽく、その色と質感はコールタールを連想させた。御伽噺に出てくる魔女の鍋を再現したらきっとこうなるであろうと 確信をもって断言できそうな光景だった。しかしながら、鍋から出てくる湯気の熱と煮込み音は心地よく、またにおいは芳しく、視覚的な情報を遮断すれば食欲 をそそる要素が満載だった。
 彼女は玉じゃくしの柄に付着したスープを人差し指の腹で拭い取ると、そろりと舌を這わせて舐め取った。
「ん……おいしい……隠し味が効いたのかしら。狩りの甲斐があったというものね」
 妙にエロティックな仕種ではあったが、舐めているのが謎のコールタール状の物体なので、官能というより得体の知れない恐怖を駆り立てる光景だった。
「うぇ……」
 覗き見中のプロイセンは、むかむかとこみ上げる吐き気を堪えようと手の平で口を覆った。気分を悪くさせるような異臭や悪臭はないのだが、いかんせん視覚 から来る刺激が強すぎる。彼は用件を放り出しいますぐここから逃げ出したい衝動に駆られたが、放っておいたら本日の食卓にあの不気味なスープが並ぶかと考 えると、発見してしまった以上なんとかしなければならないという義務感に駆られた。
「な、なあベラルーシ……」
 食器棚の陰からそろそろと出たプロイセンは、今度は控えめな声音で彼女を呼んだ。すると、彼女は隣のコンロに置かれたやかんを手に取り、激しくも迅速な 動きで彼のほうに注ぎ口を向けた。揺さぶられたやかんの口からは熱湯が飛び散った。
「うぉ!? 危ねぇ!?」
 彼は反射的に一足飛びで斜め後ろに逃げると、間一髪のところで熱湯を浴びるのを回避した。
「てめえ! 熱湯振り回すたぁ何のつもりだ! いまのぜってぇ殺意あっただろ!」
 彼が怒鳴り声を上げると、彼女は不愉快そうに眉をひそめ、険しいまなざしでにらみつけてきた。
「ちっ、逃げ足の速いハエだ。しかし次こそは仕留めてやる。私の料理を汚すものは許さない」
 と、やかんをコンロに戻すとテーブルに手を伸ばし包丁を取り、逆手に構える。彼女が正面を向くと、エプロンの胸のど真ん中には鎌トンカチのアップリケが 縫い付けられているのが見えた。
「すみませんごめんなさい包丁はやめてください!」
 プロイセンは喚きながらも、即座に逃げ出そうとはしなかった。ここで下手に動いたりましてや背中なんて見せようものなら即刻狩られると、本能が警告して くる。スカートの裾をゆらゆらと揺らしながら、ベラルーシが一歩ずつ近づいてくる。
「ずいぶんと大型のハエね。的が大きい分、逃げ惑ったところで当てやすくて助かるけれど」
「待て! ここは戦場じゃない!」
「私にも多少の慈悲はあるから安心なさい。苦しまないよう、一撃で仕留めてあげるから。衝撃を受けた直後にはあの世だから、痛みを感じる暇もないわ。大丈 夫、私の腕を信じなさい」
「お願いだから刃物をしまって話を聞いてください! 最近のハエは人語を解するだけの知恵があるんです!」
 近接戦闘には自信があるし、女性相手に力負けする気はないプロイセンだったが、この魔女じみた迫力を漂わせるベラルーシを前にすれば、勝負は筋力体力技 術以前の問題のように思われた。まったくもって勝てる気がしない。ついでに説得が通用する気もしない。
 しかしこのままでは自分の生命にカウントダウンがはじまるのは時間の問題だったので、彼は捨て鉢な気持ちで両腕を前に突き出して注意を引いた。
「ほ、ほら! これを見ろ!」
 彼が両手で引っ張って見せたのは、伸縮性のある薄水色の布だった。形状は三角形に近い。
 それは、女性もののショーツだった。
「これ、おまえのだろ!?」
 ああ、若い娘にこんなこと尋ねるなんて(いや、年配の女ならいいというわけではないが)、俺はなんて変態的なことをしているんだ。これじゃただの変質者 じゃないか。まあ不本意とはいえ、これが目的でベラルーシのやつを探してたわけなんだけど……。
 自分の言動を嘆かわしく思いながらも、彼は目を逸らしたら負けとばかりに彼女の剣呑なまなざしを真正面から受けた。張り詰めた空気を醸すふたりの間に は、世の男に清純さを連想させそうなパステルブルーの下着。なんともシュールきわまりない光景だった。
 彼の突拍子もない行動にさすがの彼女も虚を衝かれたらしく、包丁を構える手が緩む。しかしうろたえる様子はない。
「それがどうしたというの」
 彼女は興味のなさそうな調子で言った。彼女がこの程度で狼狽したり恥ずかしがったり逆上したりするようなかわいらしい精神の持ち主ではないとわかってい たプロイセンだったが、さすがにこの薄すぎる反応は予想外だった。多少は不快感を示してくると思ったのに。
「なんだその淡白な反応は! これがどこにあったかわかってんのか!?」
 だらしない娘の行状を諌める母親のような勢いで叫ぶプロイセン。しかしベラルーシは平然と答えるばかりだ。
「洗濯籠の中だろう。そのへんに脱ぎ散らかすほどはしたなくはない」
 彼女の言葉を聞いたプロイセンは、うぎゃっ、とひしゃげた悲鳴を上げた。
「おまっ……ちょっ、これ使用済みかよ!? う、うわぁぁぁぁぁぁ! なんかすみません!?」
 洗濯されたものならともかく、一度穿いたあとの下着を思い切り引っつかんでいたことに唐突に罪悪感が湧き上がり、彼はあわあわと慌てながら水色の布を左 右の手の中で行ったり来たりさせた。
 その動作がうっとうしかったのか、彼女の瞳に再び穏やかでない光が宿る。
「本当にうるさいハエね……」
「は、刃物は仕舞おう!? な!?」
 結局いまだ下着を掴んだまま、彼は彼女を静めるべく両手を前に突き出して振った。どちらかというと闘牛士のような気分がしないではなかったけれど。
 じりじりと迫ろうとしたベラルーシだったが、ふいに小鼻をひくつかせると、
「いけない、焦げる」
 くるりと踵を返してコンロへ向かった。彼女にとっては、ハエ退治よりも鍋を焦がさないことのほうが重要なようだ。そして彼の存在など最初からなかったか のように調理の戻った。
「おいベラルーシ、おまえ何考えてるんだ」
 彼は彼女を刺激しないよう静かに尋ねた。無視されるかと思ったが、彼女はぞんざいな声で答えてきた。
「料理が終わったら殺虫剤を自作しようと考えている。ひとひとり殺せるくらい強力なやつを」
 聞き捨てならない恐ろしい発言ではあったが、とりあえず彼は聞き流すと、料理中の彼女の邪魔にならないよう、しかし視界には入るように例の下着を差し出 して見せた。ぎゅっと握るのははばかられたので、指先で摘むようにして。
「あのなあ、おまえの下着、俺らの――つまり男子用の――洗濯籠に入ってたんだぞ。で、代わりにおまえの兄貴のがなくなってた。いったい何のつもりなん だ」
 ほんの少し咎めるような口調で彼が聞くと、彼女は不機嫌そうにぴくりと片眉を引きつらせた。ああ、やっぱこいつが犯人か、と彼は確信した。


平行線上の駆け引き

ベラの料理シーンは、『ハーメルンのバイオリン弾き』のパンドラのパロディです。


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