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かまって、お父さん


 起きている限り絶え間なくやかましい人物が浴室に自主隔離中の間、ドイツはウサギ柄のエプロンを身につけたまま、キッチンの掃除に勤しんでいた。常日頃から調理場の清潔を保つことには余念がないが、今日は時間的な余裕があるため、日常の家事の一環としての掃除に加え、シンクやコンロまで磨いている。薄い油汚れで曇った銀色が洗剤とスポンジによってぴかぴかとした輝きを取り戻していく過程を見ていると、なんともいえず心が落ち着いた。段々と掃除に没頭していった彼は、使用済み歯ブラシを使ってコンロの細かい部分の汚れをこそぎ落としはじめた。その真剣きわまりない鋭いまなざしは、主夫というよりはむしろ職人のそれであった。
 意味不明な威圧感を漂わせながらキッチンの清掃に励むドイツだったが、
「おーい、いるかー?」
 ドアの向こうから聞こえてきた声に振り返った。と、出入り口の扉が押され、できた隙間からプロイセンがにゅっと首を出してきた。
「どうしたんだ」
「なあ、俺のパンツ知らね? 見当たらねえんだけど」
 唐突な質問とともにキッチンへ足を踏み入れたプロイセンは、グレーのボクサーブリーフ一枚といういでたちだった。いや、正確には足元にスリッパが引っかかっているが。
 半裸で現れた彼にドイツは別段驚きもせず、すっと視線を彼の下半身に移動させ、不可解そうに首をひねった。
「いままさに穿いてると思うんだが」
 ドイツの冷静な指摘に、しかしプロイセンは首を横に振った。そして、自分が穿いている下着の裾を指先でちょっと摘んで見せた。
「いや、そうじゃなくてだな。コレは新しいやつ、風呂上りに着替えた。なくなったのはさっき穿いてたやつなんだよ。風呂入る前に脱いで洗濯籠に放り込んどいたはずなんだけど、いま見たらなくなっててよー、脱いだパンツが行方不明ってのもなんか気持ち悪ぃから探してんだわ。おまえ知らねえ?」
 回りくどい説明だったが、要するに入浴前に着用していた下着が行方不明になったということらしい。確かに、これから洗濯するつもりでいた使用済みの下着が忽然と姿を消したというのはなんだか気持ち悪いかもしれない。しかし、どうしてそれを俺に聞くんだ――ドイツは持っていた掃除用歯ブラシをシンクの上にことりと置いてから答えた。
「俺が知るわけないだろう。籠の裏とか洗濯機と壁の間とか、隙間に入り込んでるんじゃないか?」
「そのへんは抜かりなく確認した。それで見つからなかったから聞いてるんだろ」
 言いながら、ゴムの位置のすわりが悪いのかプロイセンは下着のウエスト部分を引っ張って何度か小さく上下に動かして調節した。ドイツは困ったように顎に手を置いた。
「そう言われてもな、心当たりなんてないぞ」
「間違えて穿いてるとか」
 なぜか疑わしげな目つきで見てくるプロイセン。ドイツは真顔で否定した。
「俺は着替えてなどいないし、第一ずっとキッチンで掃除してたんだが。何をどう間違えると言うんだ……って、ズボンを下ろすな! そんなとこ確認しても無意味だ! 誰がひとの使用済みパンツなんか穿くか!」
 ドイツは悲鳴に近い叫びを上げると、エプロンをめくり上げジーンズのボタンとファスナーを解放しウエストごと下げようとしてくるプロイセンの手を掴んだ。が、プロイセンの無駄にすばしっこい指先は、ドイツが着用中の下着のゴムをしっかりと掴んでいた。彼はその先にある布をずり上げると、興味津々といった調子で声を踊らせた。
「おっ、なんか派手なトランクス穿いてるじゃん。どーしたよこれ、おまえの趣味じゃねえよな? 誰かにもらったとか? 下着プレゼントされるなんてやるじゃん」
「おい! やめろ、引っ張るな!」
 腰にまとわりつきながらズボンを下ろしパンツを観察しようとするプロイセンを制止しようともがくドイツだったが、相手の無駄にハイレベルな組技の前に苦戦する。さすがかつての師だけあって、現役を退いたいまもなんだかんだで技術が衰えていない。むしろよろしくない方向に上達さえしているかもしれない。
「ちょっ……やめないか!」
 なかば本気になって、ドイツはプロイセンの手からウエスト部分を奪還した。プロイセンは思いのほかあっさりと手を離したものの、代わりにニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてはドイツの顔を眺めてくる。
「恥ずかしがるなよ〜。いまさらだろ? 散々パンツもその中身も見せ付けあった仲じゃん俺たち」
「変な表現はよしてくれ。身内なんだからそのくらい普通だろ」
「あ、そうそう、昔おまえがピ――ッで悩んでたときさあ、下丸出しで俺の部屋まで来たことあったじゃん? あんときはさすがに――」
「その話はやめてくれ本当に! 掘り返すな!」
 過去の些細な出来事を曝露しようとするプロイセンを、ドイツはほとんど叫ぶようにして遮った。いや、当事者である彼ら以外に聞いている人間がいない以上曝露にはならないだろうが。しかしほかならぬドイツ自身がもっとも聞きたくない思い出ではある。必死になるあまり、ドイツの顔はいつになく紅潮し、青い瞳が心なしが潤んでちょっぴり泣きそうな様子だった。
 プロイセンは何も本気でドイツの嫌がることをしたいわけではないようで、彼の必死の形相を拝めたことに満足したのか、それ以上の思い出話には踏み込まなかった。
 しかし、かわいい弟分にちょっかいを掛けたいという衝動は治まりきらないようで――
「でももうちょい色気のあるデザインのが似合いそうだけどなー。せっかくいい体してんだしよぉ。今度なんかおまえに似合いそうなの見繕って買ってきてやろうか?――エロいやつ」
 相手が女性だったらセクハラで訴えられそうな発言とともに、ドイツの尻を景気づけよろしくパンと軽く叩いた。
「おー、相変わらずいいケツしてんなあ。せっかくいい素材もってんだから、もっと活かせよ」
「兄さんに下着の駄目出しをされる言われはない!」
 ドイツは思わず腕を後ろに回して自分の尻を両手で押さえた。
「えー? でも俺ほどおまえの魅力を活かしてやれるセンスの持ち主はいないと思うぜ? 俺を信じろよ、兄弟」
 プロイセンは立てた親指を自分の胸元へ向けると、いやに自信に満ち溢れた口調で堂々と主張した。が、口の端は相変わらず引きつるように非対称に持ち上がっている。
「そのにやついた顔のどこに信用を置けと言うんだ」
 剣呑な調子でドイツがぼやく。と、ふいに乾いた小さな音が近づいてきた。
 音源のほうを見やると、アスターが早歩きのような歩調でふたりのほうへ近づいてきた。
「どうしたアスター?」
 アスターはふたりの間に立つと、落ち着かない様子でドイツとプロイセンの顔を交互に見上げた。
「なんだ、心配してくれたのか。大きい声出して悪かったな。大丈夫、お父さんとお母さん、別に喧嘩してるわけじゃねえから」
 プロイセンは床に片膝をつくと、アスターの下顎を撫でてやった。
「だからその呼称はやめろと言ってるだろう」
 ドイツが再度注意するが、プロイセンはさくっと聞き流し、真面目な表情でアスターに尋ねた。
「ところでおまえ、俺のパンツ知らねえ?……ん?」
 人語を解したわけではないだろうが、文字通り動物的な勘のよさによって現況におけるトピックを察したのか、アスターは思わせぶりな仕種で首を右に向けた。人間ふたりがその動きを追って視線を移動させると――
「あ! ベルリッツ! 駄目じゃん、ひとのモン勝手に持ってったら!」
 黒い布の塊を加えたベルリッツの正面顔が視界に入った。
 プロイセンは立ち上がると、眉をしかめながらつかつかとベルリッツのほうへ詰め寄った。
「も〜、なんで取ったりするんだよ。ほら、返せ。それお父さんのだから」
 顎を軽く掴まれたベルリッツだったが、譲ることなくいやいやと首をそむけた。しかし同時に、口の周りを掴んでくるプロイセンの手のにおいを熱心に嗅ぎもする。プロイセンはしばし訝しげに眉根を寄せていたが、やがてベルリッツの行動の意味を彼なりに解釈すると、
「なんだ、お父さんのにおいが恋しかったのか? それともかまってもらえなくて寂しかったか? 仕方ないやつだな。まあいい、それはおまえにやるぜ。それ嗅いでお父さんを思い出すんだぞ」
 パンツごとベルリッツの顎から手を離し、その手で頭を撫でてやった。
 が、背後から影を落とす人物はそう簡単には納得しないようで、
「教育と健康に悪いことをしてくれるな」
 仁王立ちで両腕を腰に当て、厳しい顔つきでプロイセンを見た。主人の威圧感を感じ取ってか、アスターはあっさりと口を開くと、くわえていた下着を床に落とした。プロイセンは犬の唾液まみれになった自分の下着を拾い上げると、ちょっぴり不機嫌そうにドイツを見上げた。
「なんだよ教育と健康に悪いって」
「……とりあえず服を着てくれ。問題は解決したことだし」
 ドイツはプロイセンの手から使用済みパンツを引き剥がすと、空いている手でバスルームのほうを指差した。
「へいへい」
 プロイセンはドイツから自分の下着を受け取る素振りも見せず、パンツ一丁のままキッチンを出て行った。階段を昇る音が聞こえることから、二階の寝室に向かったのだろう。結局下着以外の着替えは用意していなかったのか……とドイツはちょっぴり呆れた。
 犬の唾液でべったりと濡れた彼の下着を摘んだまま、ドイツは洗濯場へ足を運ぼうとした。と、テーブルの上に置かれた飲み差しのペットボトルが目に入る。先ほどプロイセンに渡したものだ。
「ベルリッツ。悪いがこれを兄さんに届けてくれ」
 ドイツはベルリッツを呼び寄せて宅配を命じた。しかしベルリッツはボトルを加えただけで、首を傾げてその場に座っている。ドイツは一瞬どうしたのかと訝しく思ったものの、すぐに状況を察し、
「……《お父さん》に届けるんだ」
 と命令を修正した。ベルリッツは聞くが早いか、即座にプロイセンが移動していった方向へと駆け出した。
「まったく……変な教育をして」
 眉間に皺を刻み深々とため息をつくドイツの足元で、アスターがかまってくれとばかりに鼻をこすり付けていた。


お母さんがいちばん

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