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ダイエット!


 朝、ドイツが自室から階下へ降りると、ダイニングの照明がすでについていた。消灯にはよくよく気をつけているのだが。……まあ、大方の見当はすでについているが。
 キッチンの扉を開くと、その先にある空間に人影があった。泊めた覚えのない人物が我が物顔でテーブルを占拠しているのを見つけ、ドイツは咎めるのも面倒くさそうにため息をついた。
「またか……。おはよう」
「おー、おはよ」
 朝っぱらからちょっぴり疲れたようなドイツの声とは対照的な、上機嫌そうなトーンが返ってくる。
「新聞買っといたから。カウンターの上。あと、牛乳新しいの入れといたぞ」
「そうか。どうも」
 プロイセンはノートパソコンに視線を落としたまま、指先をキッチンの冷蔵庫へ向けた。ドイツは口を水でゆすいだあと、牛乳パックを開いた。マグカップを持ってカウンターを横切り、プロイセンが陣取っているテーブルの向かいに席を取る。
「何をしているんだ?」
「うん? 執筆活動」
 キーボードを叩きながらプロイセンが答える。ドイツはマグカップを口から離すと、露骨に眉をしかめた。
「執筆活動? また変なペンネーム使って軍事評論家の真似事をしているんじゃないだろうな。おまえがやるとシャレにならないから注意しろ。以前『シュピーゲル』を騒がせただろうが」
 懸念と忠告を込めてドイツが言うが、プロイセンは鼻で笑うだけだった。
「はん。俺が十五分で書いた文章で騒いでどうすんだ、あの編集部」
「そういう軽はずみなことはやめてくれ。後始末するのは結局俺なんだぞ」
「大丈夫だって。今回はただのダイエット本なんだしよ」
「ダイエット本……?」
 朝刊を広げかけていたドイツだったが、プロイセンの発したいささか脈絡のない単語に、ぴたりと腕を止めた。ダイエット?
 新聞を少し下げて、ディスプレイの向こうにある相手の顔を怪訝そうに見つめるドイツ。プロイセンはむっとしながら答えた。
「なんだその胡散臭そうな顔は。ちゃんと科学的根拠に基づいて書いてるぞ。データ採取もきちんと行っている」
 ほら、と彼はキーボードを打つ手を止め、パソコン本体を半回転させ、ディスプレイをドイツの前に提示した。表計算ソフトやら統計処理画像やらワードパットやら、さまざまな画面が立ち上げられている。なぜかMRI画像まである。得体の知れない数字とグラフがやたらめったら並ぶ画面を見ながら、ドイツはこめかみを押さえた。
「……あんまり聞きたくないが、知ってしまった以上、知らないふりをするのも落ち着かないからあえて聞く。どういう内容なんだ」
 尋ねられ、プロイセンはちょっと首を傾げ、ぽりぽりと頬を掻いた。
「どういうって……食事療法より運動療法を重視した内容だけど。食事もけっこうなことだが、消費カロリーが圧倒的に上回れば嫌でもやせるだろ」
「シンプルすぎて逆にわかりにくい説明だな」
 そんなのでダイエット本として成り立つのか。疑わしげなまなざしを向けてくるドイツに、プロイセンはディスプレイをとんとんと指先で叩きつつ、胸を張った。
「言っとくけど、けっこう売れてるんだぜ、これ。いま書いてんの、第四版なんだから。今回の版はデータ刷新と新しいトレーニング技術の紹介がメインだけどな。俺だってやみくもに体鍛えろなんて売れそうにねえこと書いてねえよ。この書の中では、むしろ無駄な筋トレは控えろと指示している。だって筋線維鍛えりゃそれだけ太くなるからな、当たり前だけど。おまえの体がいい見本だろ」
 プロイセンはドイツの胸筋群をじっとりと見た。そのねちっこい視線にドイツはちょっと居心地悪そうに身じろいだ。
「いままでに三版も出ているのか」
 プロイセンは得意げにうなずく。
「おう。あ、っつっても、国内じゃ初版しか出回ってねえよ。ドイツじゃあんま売れなくてさあ、ものの試しに英語に翻訳してアメリカの野郎に売りつけてやったら、あっちで馬鹿売れしたんだ。あ、タイトルは『インナー・マッスル・トレーニング〜筋肉から神経まですべてを把握しろ! 筋機能完全制覇への道のり〜』だ。むかつくけど、英語のが流通がいいのは事実だからよ、いまは英語版メインで出版してんだ。あの若造、こういうの好きだしな。しかも今度スペイン語版も出そうかって話になってんだぜ。こないだスペインと打ち合わせしてきた。スペイン語も流通いいからな。ははははは、すげえだろ、俺って売れっ子なんだぜ」
 どうだ見直したか。プロイセンは不敵な笑みとともに、親指でびしっと自分の胸のあたりを指した。ドイツは面倒くさそうな声音で、それはすごいな、とコメントをしてやった。
「しかし、いかにもアメリカが好きそうな題名だな。ダイエット本とは思えないネーミングだが」
「そりゃ、そのへんの傾向もちゃんと研究してるからな。市場対策として。ははははは、こういうとき、資本主義楽しいと思うわ、まじで。昔だったらこんなアホくさい本売り出せねえっつーの。まあ、真面目腐った文章で書けばいいだけのことだったけどよ」
「おまえ、あの体制下でもこういうことしてたのか?」
「へへん、それは教えてやんね」
 プロイセンは意味ありげににやりと笑って見せた。ドイツがぴくりと片眉を動かす。社会主義時代のことはあまり詳しく話していないので、気になるらしい。時折そのことについてにおわすとあからさまに反応するので、つい突付きたくなってしまう。が、プロイセンはそれ以上は言及せず、逆に茶化すように手をぱたぱたと上下に振った。
「あー、嘘嘘。そう小難しい顔すんなよ。ただでさえおまえむっつりしてんのに。ますますかわいくねえぞ。わかったわかった、あと百年くらいして、気が向いたら教えてやっから。あ、覚えてたらの話な」
 適当な口約束を交わしながら、彼はパソコンを自分のほうへ戻し、マウスでカーソルを操作した。ドイツはこほんとわざとらしい咳払いをしてから、話題を転換する。
「ところで、なぜ俺の家でそんな仕事をする必要があるんだ。自宅で十分だろうが」
「いや、それがさあ、いま電気止められてて。いや、そんな貧窮してるってわけじゃないぞ? ただ、支払いを忘れててな」
 ぬけぬけと答えるプロイセンに、ドイツが呆れた声を出す。
「電力目当てで来たのか」
「やー、このところ忙しくってさあ、通帳チェックし忘れてたんだよ。週明けにちゃんと払い込むから、それまで泊めろよ。いいだろ?」
「すでに泊まってるだろうが」
「既成事実つくったほうが交渉を有利に進めやすいってもんだろ」
「妙な単語を使うな。無性に気持ち悪い」
 頭痛に耐えるように頭を押さえるドイツ。プロイセンは唇を尖らせた。
「なんだよー、俺が仕事してないほうがいいって言うのかよー」
 ぷーぷーとうるさいプロイセンに、ドイツが真顔で即答する。
「いや、仕事はしてくれ。でないと、いろんな意味で心配になる」
「深刻な顔で言われるとむかつくな。悪かったな、失業率高くてよぉ」
 はあ、とプロイセンは少しだけ真面目そうにため息をついた。
 下ろしたまぶたを再び持ち上げ、ディスプレイを見る。と、彼はなにやら思い出したらしく、座ったままおもむろに体を斜め下に倒し、床においてあったボストンバッグに腕を伸ばした。バッグのサイドポケットから取り出したのは、ケースに入った一枚のDVD。
「そうそう。あと、二番煎じになるけど、軍隊式ダイエット術も考案したんだ。あ、俺がやりたいっつったんじゃなくて、向こうが依頼してきたんだぜ?」
 人差し指と中指の間にプラスチックの薄いケースを挟んで、ドイツの前にちょっと突き出して見せる。ラベルも筆跡もないDVDに、ドイツは目をぱちくりさせた。
「軍隊式ダイエット?……ああ、以前アメリカで流行った、なんたらキャンプとやらのパロディか?」
 プロイセンはケースから真新しいDVDの中央の穴に人差し指をくぐらせて摘み上げると、
「まあ、そんなとこだ。俺のはあんな生易しいもんじゃねえけどな」
「もはやダイエットではなく、軍事教練そのものになっているんじゃないか? そんなものを一般人にやらせたら死人が出るぞ」
「大丈夫大丈夫。俺もそのへんはちゃんと考慮してる」
 ノートパソコンのサイドを操作してDVDを挿入した。キュルルル、と少し軋んだ音を立てながら、データが読み込まれる。プロイセンはパソコンを九十度回し、一緒に見るようドイツに示した。
「とりあえずいくつかデモ映像つくってみたんだ。まあ、試しに見てみろ。けっこううまく撮れてるからよ」
「ふむ……自作なのか?」
「おう。機材から撮影場所から収録内容まで、全部俺がプロデュースでアシスタントで主役だ!」
「仲間がいなかったんだな……」
 ドイツはかわいそうなものを見る目で相手を一瞥した。が、プロイセンはその視線には気づかず、楽しそうに画面を操作している。メニュー画面はやたらと派手なテクスチャと妙にリアルなCGで飾られている。手作りだとしたら相当な凝りようだ。
 はじまるぞ。再生を押したプロイセンが合図をする。ドイツは椅子を横に移動させてパソコン画面の前に座った。
 映し出されたのは、鬱蒼とした緑。どこかの森だろうか。しかし、ドイツ国内ではありえない植生のような気がするのだが……。
 十秒ほどすると、固定されたカメラに男がひとりフレームインした。やたらときびきびした足取り。見覚えのある足の運び方だ。まるで行進のような。
 段々とカメラに向かってくるのは、迷彩の戦闘服に身を包んだプロイセンだった。ちょうどバストアップになったところでぴたりと立ち止まると、彼は大口を開けると同時にいきなり叫んだ。

『いいかこのウジ虫ども! 貴様らはピ――ッでピ――ッなピ――ッにすぎない! このキャンプから生きて故郷に帰りたくば、せめてウジ虫から芋虫に生まれ変わってみせろ! 俺は貴様らの脆弱な根性を叩き直すためならば手段を選ばない。貴様らのような軟弱者どもの顔を見るのは反吐が出るが、その顔を苦痛でゆがめてやるのは手頃な娯楽だ。せいぜい覚悟を決めて苦しむがいい、このピ――ッにも劣るウジ虫どもがぁっ!!』

 凄まじい剣幕とともに口汚い言葉の数々が浴びせられる。こめかみに血管が浮き上がりそうな勢いだ。
 あまりの迫力に、ドイツはびくりとその場で固まった。


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