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普+洪で、間接的にうっすらと露普要素があります。
「ブダペストの休日」と同じ設定ですが、ストーリーは直接つながっていません。
ほんの少し史実要素がありますのでご注意ください。





夏の夜の雨


 ブダペストの街並は終日、細かな水滴に打たれていた。一年でもっとも日が長くなるこの時期、日の入りは本来遅く、夜の時刻になっても薄明かりが街を包むものだったが、この日は黒い雨雲に覆われ、夕刻からどんよりと暗かった。内陸のこの街は、夏でも日没後には冷涼となる。今日のような、一日中雨模様の日は特に。
 まるで秋のよう――ハンガリーは夜間の肌寒さに薄手のカーディガンを取り出して羽織った。雨は激しくはないが、途絶えることなく一定の恵みをもたらしている。
 朝までにはやむといいんだけど。洗濯物がたまっちゃう。
 二の腕をさすりながら、彼女は雨粒が絶え間なくぶつかってはさまざまな奇跡を描く窓ガラスを見た。静かな夜だった。雨音だけが支配者となる、静謐な街。実際にそうであったらいいのに、と彼女はほの暗い苦笑とともに思った。何年も前から、彼女の愛する都には重い空気が漂っていた。抑圧と抵抗のせめぎ合い。目を逸らすつもりはない。けれども、見つめ続ける光景はときに気丈な彼女の気持ちを滅入らせた。
 よくない徴候ね。彼女は誰にともなく否定するように首をゆるゆると左右に振った。雨は嫌いではないけれど、独特の静けさが憂鬱を招くこともある。こういうときは日常的なことを考えるのがいい。たとえば、明日の朝食とか、洗濯をどうしようとか、保存食のチェックとか、表の通りの掃除とか。
 そんな家政的なことを考えているうちに、天気が気になり出し、彼女は部屋の出窓を数センチ空けた。外界との遮断を解くと、思いのほか雨音が大きいことにはじめて気づいた。夕方より雨足が強くなっているようだ。
「ん〜……明日も駄目かしら」
 窓の片側を開けて右側だけ腕まくりをすると、前腕を外に差し出して手の平に水滴を受ける。手はたちまち雨に洗われた。跳ねた水滴が肘のほうまで飛び、カーディガンの袖を少し濡らした。
 彼女は手を引っ込めると、ぱたぱたと右手を振って水の粒を飛ばした。まだ早い時間だが、もう寝てしまおう。そして、明け方晴れていたら、二日分の洗濯をしよう。そう決めると、彼女は窓を閉めようと手を伸ばした。
 と、そのとき。
 彼女はふいに人影を見た気がした。
 遠い。十数メートル先だ。時刻から行って市民が歩いていてもおかしくはないが、彼女は先ほど自分がとらえた人影に妙な胸騒ぎを覚えた。窓を開け放ち、彼女は濡れるのも構わず窓枠の外に身を乗り出した。
 勘に突き動かされるままに眼球を動かして視線をさまよわせると、斜め前の通りに植えられた街路樹に目が留まった。五メートルほど高さの細い木にはいまの季節、緑が生い茂っているが、いまは夜闇に包まれ黒いシルエットにしか見えない。彼女は暗闇の中目をこらしてそちらを見つめた。と、細い幹の下部が不自然に膨らんでいるのがわかった。
 いや、膨らんでいるのではない。幹の裏側に何かがあるのだ。
 上半身をほとんど外に飛び出させ、彼女は街路樹を、いや、その向こうにあるものを凝視した。暗順応した彼女の目は、シルエットの輪郭を映し出した。それは、人影に見えた。雨宿りをしているのだろうか。
 彼女はそう訝ったとき、ふと街路樹の下の人影が動いた。こちらを見ている。
 どきりと心拍を上げつつも、彼女は視線を外せなかった。さらに十数秒、じっと人影を観察する。やがて、彼女の網膜に結ばれた像は、記憶との照合の結果ひとつの結論に近い推測を打ち出した。
「プロイセン……?」
 口の中で呟く。この距離ではもちろん相手には届かない。が、人影は彼女の反応を読み取ったのか、幹の後ろから一歩横に出ると顔を上げた。
「やだ、やっぱり……」
 彼女は口元を押さえた。いるはずのない人物が十数メートル先にいる――理由はわからないが、歓迎できる事態でないことは瞬時に判断できた。
 彼女は桟に両手を置くと、前のめりになって大声を出した。
「何しに来たの、早く帰りなさい! 何を求めて来たのかは知らないけど、あんた、いまの状況で家出はまずいわ。事件起こしたばっかで、マークされてるでしょ」
 こうして彼に向かって言葉を掛けるのもまずいかもしれない。彼女は冷静な部分でそう考えながらも、雨に打たれる彼に向かって忠告を続けた。
「聞こえてないの? 早く、早く家に戻って。迷惑なの、私の家に来られると。私まであらぬ疑いを掛けられるじゃない。早く帰って、早く!」
 何を考えているのか、彼は。情勢がわからないではないだろうに。
 危機と混迷とが錯綜する自分の庭を抜け出て、隣人の庭先に迷い込むなんて。先月彼の家で起きた《事件》については、詳細は濁されているものの彼女も知るところだった。あの日以来、彼の国内での消息が不明となっていたことも。しばらく表に出てこないと思ったら、こんなところに……。
 何をやっているの、という苛立ちと怒りとともに、彼女はいくらかの安堵を覚えた。彼が無事だったということに。《事件》のあと今日まで姿が見えなかったのは、ひどく不気味だった。彼の身に何が起こっているのか、嫌な想像を掻き立てられていたから。彼がとりあえず五体無事な姿を見せたことは、彼女の懸念のひとつを解消させた。
 だが、同時に途方もない不安が胸をよぎる――彼がこれからどうなるのか。あの《事件》は彼を完全にしがらみの中へ追いやり、絡め取った。操られる運命が待つ舞台装置は、すでに整ってしまった。
 その状況下で舞台から脱走することの重大性を彼が理解できないとは思えない。彼はあれでも本質は理知的なのだ。しかしその彼は、現に彼女の前にいる。理性を振り切るだけの衝動が彼の中にあったのかもしれない。しかし、そうだとしても、やはり現状は看過できないものがある。ここは彼女の街であり、彼女には彼女の立場があるのだから。
 彼女は通りで立ち尽くす男に苛ついたまなざしを向けた。だが相手はその場に立ち尽くすだけで、動こうとはしなかった。まるで足を縫い付けられたかのように。
 表情は判別できない。が、雨の中でひとり佇む男の孤独は憐憫を誘う。降りしきる雨の街をどのくらいさまよっていたのだろうか、雨宿りが無意味なくらい彼は濡れていた。と、おもむろに、彼は緩慢な動作で両肘を曲げると、自身を抱くようにして上腕を掴んだ。ぎゅ、と自分の体を抱き締める。凍えるひとのように。夏といえど、雨の夜は冷える。大丈夫だろうか――。
 す、と彼の顔がほんの少し持ち上がった。夜闇の中、一瞬、ほんの一瞬だけ、見捨てられた子供のような悲しげな表情が彼の面によぎった気がした。
 けれども、彼女は頭を強く左右に振ってきつい言葉を投げ掛けた。
「嫌なことがあったのは知ってる。でも、だからって私のうちに来ないで。迷惑だってわからない? 帰りなさい。そんな顔したって駄目。私は何もしないんだから。できることと言ったら同情だけ。それ以外は何もしない」
 暗闇の向こうでずぶ濡れの髪を額に貼り付けた彼が、わずかに唇をわななかせようとしている気がした。彼女はよくない汗とともに心臓を高鳴らせながら相手のリアクションを待った。が、彼は結局何の言葉も返さないまま踵を返し、らしからぬ狭い歩幅でふらふらと頼りない足取りで歩き出した。見送った彼の背中は、無性に小さかった。
 窓の内側に体を引っ込めた彼女は、その後ろ姿を見つめながら、ぐっと唇を噛み締めた。これでいいの、これが正しい対応なんだから。そう自分の心に言い聞かせながら。


なみだあめ

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