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なみだあめ


 ばたん、と音を立てて玄関の扉が閉められる。ハンガリーは施錠を確認すると、玄関の内側に立つ青年の手を引っ張って家の中へ入っていった。握った手首は自分のものよりずっと太かったが、雨に濡れて冷え切っており、ひどく頼りなさげに感じられた。電灯に照らし出された彼の顔は蒼白で、唇は少し紫になっていた。
 あのとき。
 去っていく彼の後ろ姿がいまにも消え入りそうで、彼女は瞬間的に心臓を内側から掴まれるような嫌な気持ちを味わった。そうして気がついたときには家を飛び出し、通りまで走って彼を呼び止めていた。結局、彼を放っておけずに家に招いてしまった。というより、ほとんど連行するようにして自宅まで引っ張ってきた。
 上司に与えられたアパートは部屋数が少ない。彼女は仕方なく彼を寝室に招き入れると、箪笥から古びたバスタオルを取り出し、頭にかぶせてやった。
「馬鹿ね……」
 バスタオルを掛けられたまま動こうとしないプロイセンに焦れて、彼女は両手をタオル越しに彼の側頭部にそえ、がしがしと頭髪を拭いてやった。彼はされるがまま、その場に立っているだけだった。
「びしょ濡れじゃない。まったく、何してるんだか……風邪引くでしょ」
 髪の毛の水分をひと通り拭き取ったところで、彼女はタオルを左右に開き、彼の顔を見つめた。外でつかまえて以来ずっと無言の彼は、表情まで沈黙に凍りついたように動かなかった。ともすれば、彼の無表情を見るのははじめてかもしれない。彼女は彼の頬に手を添えた。冷えているだろうという予想に反して、顔は幾分温かかった。玄関に通したときよりも赤みが差している、発熱しているのだろうか。
 彼の頬を親指の腹で撫でながら、彼女は尋ねた。
「こんな状況で自分ち放り出して私のうちに来るなんて、何考えてるの。帰ったら叱られるんじゃない?」
 プロイセンは無言だった。が、無反応ではなかった。彼はなかば目を伏せると、す、と視線を床に逸らした。
 何があったの――とは聞かなかった。いや、聞けなかった。憶測はいくつも立つがどれも穏便なものではないし、つらそうにしている相手から無理に言葉を引き出すことはしたくなかった。
 彼女は何も問いたださないまま、濡れた彼の顔や首を拭いてやった。改めて彼の格好を見ると、まるで河で溺れたあとのようだった。飽和まで水分を吸った開襟シャツはべったりと体に張り付き、同じく足にまとわりつくズボンは、裾からぼたぼたと絶えず水滴が落ちている。寝室の床には、彼を中心にちょっとした水溜りができていた。いったいいつから雨に打たれていたのか。彼女は呆れてしまった。
「着替えよっか。冷えるから」
 彼女はそう断りを入れてから、彼のシャツのボタンに手を掛けた。自発的に動きそうにないからだ。彼は同意も拒否も示さず、虚ろな面差しで、彼女の手の動きをぼんやりと眺めていた。が、彼女がシャツを肩から下ろそうとしたところで、小さく身じろいだ。はじめて見せる、意志らしい意志。嫌がっているようだ。彼女は少し手を止めて彼の次の反応を待った。だが、彼は無反応を守った。訝りつつ、彼女は袖から腕を抜かせようとした。
 そのとき、彼の肩口に新しい傷痕があるのを発見した。やや面積の広い擦過傷。彼女は眉をしかめながらも開襟シャツを脱がせた。アンダーウェアの裾を捲ったとき、脇腹に打撲の痕を見つけた。彼女は表情がゆがみそうになるのを抑え、努めて平静にシャツを脱がせた。彼は特に抵抗や拒否を見せなかった。傷に当たらないよう注意を払いながら上半身の水分を拭ってやる。後ろに回ると、案の定、背中にも新しい傷があった。戦時中に負ったと思しき比較的新しい痕もいくらかあったが、それらは完治しているようで、彼女は少しだけほっとした。
「はあ……これじゃ小さい子と一緒じゃない」
 傷については触れず、代わりに彼女は呆れ気味の感想を漏らした。着替えを手伝ってもらうなんて、まるで子供だ。少しだけ揶揄の彩を添えた発言だったが、彼は完全に無反応だった。普段なら間違いなく突っかかってくるのに。
 これはいよいよ重症かもしれない。ハンガリーは不安を胸によぎらせながらも顔には出さず、先ほどと同じ調子で彼のズボンに触れた。と、さすがにここまで世話されるのは気まずいのか、彼はしばしの逡巡ののち、自分からズボンを脱いだ。下着一枚になった彼にとりあえず水分を吸って重くなったタオルを押し付けると、
「困ったな……男物の服なんてすぐには用意できない。あんたが私の服着れるわけないし……」
 彼女は再び箪笥の引き出しを漁りはじめた。そして奥から一枚のタオルケットを取り出し、彼の肩に掛けて首から下をすっぽりと覆わせた。
「これで我慢して。こんなのでもちゃんと巻いておけば、裸よりは寒くないでしょ」
 彼は礼ひとつ言わなかったが、彼女に貸されたタオルケットの端と端を胸の前で合わせると、ぐっと握り締めて目を閉じた。彼女の親切に感謝を捧げるように。
 彼女は、やはりその場から動く意志のなさそうな彼の腕を引いて自分のベッドに座らせた。彼はひどく従順に彼女に従った。
 台所の後始末に戸締り確認、洗濯の準備と夜もそれなりに家事はある。今日はそれに加えて、彼の服を干さなければならないし。彼女は十五分ほど家の中をぱたぱたと忙しなく動き回ったあと、熱いコーヒーを淹れたマグカップをふたつ、トレイに乗せて寝室に戻った。
 彼は放心したように床に視線を落としたまま、姿勢ひとつ崩さずベッドに座っていた。それでも、コーヒーを渡せば自発的に口に運んだ。体は渇きには勝てないようにできているらしい。
 空のマグカップをナイトテーブルに置くと、彼女はそのままベッドに入った。洗うのは明日の朝でいいだろう。
 彼女はベッドの上で膝立ちになると、彼の肘を掴んで引き寄せた。
「ほら、来なさい。体、冷えてるじゃない。濡れねずみちゃんを床に転がしておくほど、私は冷たくないつもりよ」
 彼はすばやく振り返ってきた。その顔には驚きの色が浮かんでいる。今日はじめて、彼の顔から感情らしい感情が読み取れたことに彼女は満足と安堵を得た。
 彼はかすかな躊躇を見せたが、結局彼女に引かれるまま、ベッドに横になった。シングルの狭いベッドの端で、彼はハンガリーに背を向けて小さく丸まった。先ほど細く小さく見えた彼の背中は、間近で見ればやはり広く、大人の男性のそれだった。それにもかかわらず、彼女は彼の後ろ姿が寂しく見えてならなかった。
 彼女は仰向けになり、彼の背を横目で見つめた。
 やがて、彼の肩がわずかに震えていることに気づいた。はっとして上体を起こしたものの、どうしていいかわからずその場で固まる。しばらくすると、しんと静まり返った寝室の中に彼の小さな嗚咽が響きはじめた。
 泣いている。彼が。
 見てはいけないものを見てしまった心地で、ハンガリーは狼狽した。
「やだ……泣かないでよ」
 思わずそう言葉を掛けると、薄い掛け布団を引き上げ、彼の体に掛けてやった。同じ布団の下に収まると、彼女は彼と同じ方向に横向きなり、そっと腕を伸ばした。脇腹の傷に触れないように気をつけながら、弱い力で抱いてやる。タオルケットの端から覗く彼の裸の肩に顔を寄せ、彼女は小声で言った。
「ううん……泣いてもいいよ。こんな情勢だものね、気だって滅入るでしょ、いくらあんたでも。私も同じ穴の狢だもの、わからないでもない。……だから、いいよ、泣いたって」
 彼女はそれ以上は何も言わず、ただ彼のそばで横になっていた。嗚咽はしばらく続いたが、日付が変わる頃には雨音だけが部屋を包んでいた。


雨上がり

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