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不等辺三角関係


 床に尻をついたまま、プロイセンは上体をひねって真後ろに立つロングスカートの女のしなやかな立ち姿を見上げた。風の流れを感じないものの、色素の薄い長い髪の毛がばさばさと音もなく宙を踊っている。撮影用の送風装置が運び込まれたかと疑ってしまったくらいだ。心なしか、部屋の照明も劇を思わせる効果に切り替わっているような気がする。いや、そんなことが可能な細工はしていないはずなのだが。
 これでおどろおどろしいBGMが鳴り響いてたら完璧だな。
 プロイセンはやけくそに近い心境でそんな感想をもったあと、意を決して本日二人目の来客に向き直った。そして、ぎこちない笑顔をかたちづくると、ホストとして最低限の礼儀を尽くすべく、挨拶の言葉を述べはじめた。
「よ、よお、ベラルーシ。久しぶりぃ……相変わらず美人だな。眼福で涙が出そうだ。でもおまえのその神々しいまでの美しさは俺のようなつまらない男には身に余りすぎる光栄で大変恐れ多いので、ここはひとつ穏便に速やかにお引取り願えませんかね……?」
 腰をとことん低くしてそう頼む彼の目尻には、ちょっぴり涙がにじんでいた。相手が与えてくる尋常ではない威圧感に息苦しさを覚える。ドラム缶の中で砂詰めにされた気分だ。沈黙を守るベラルーシだったが、それがまた不気味さに拍車を掛けた。呪いの言葉を吐かれるのも怖いが、無言のまま背後に佇んでいられるのもまた恐ろしい。もっとも、言葉を紡がないだけで、彼女の嫌な意味で豊かすぎる感情の荒波は、前線で一斉砲撃を食らう直前に匹敵するプレッシャーを彼に与えた。
 と、彼は己を取り囲む状況を鑑みた。三十センチ先に直立不動のベラルーシ。そして、彼の腰から足にまとわりついて離れない、彼女の兄。
 額を、背中を、全身を、冷たい汗が覆っていく。体温が上がっているのかそれとも下がっているのか、どちらにも感じられる緊迫の中、プロイセンはもつれる舌を叱咤して彼女に話しかけた。
「お、落ち着こう、な……? ベラルーシ? まずは話し合おうじゃないか。心配しなくても誰もおまえの兄貴取ったりしねえから(むしろいらねえ)。……おらっ、ロシア、離れろ! 目を覚ませ! 現実を見ろ!」
 ロシアの両肩を掴み、引っぺがそうと両腕を突っ張る。が、ロシアはほとんど脱力しているようで、ぐったりと重力に惹かれるがまま首と腕を垂らし、
「無理無理無理無理無理……」
 とうわごとのように繰り返した。顔色は死体並に青白い。
「がんばれっ! お兄ちゃんだろ!?」
 耳元で大声を張り上げるプロイセン。ロシアは寝言に近い不明瞭な発音でぼそりと答えた。
「は……半分は弟だから僕。助けてお姉ちゃん……」
「この軟弱者がぁ!」
 情けない受け答えをするロシアの額を思わずはたきたくなったプロイセンだったが、兄を病的なまでに愛してやまないベラルーシの手前、あまりぞんざいな扱いもできず、ぐっと拳を握り締めるに留まった。気絶してるならちょうどいい、見捨てて自分だけ逃げるのもアリだよな、とプロイセンは考えたものの、ロシアは膝枕よろしく彼の大腿に頭を預けるだけにとどまらず、ちゃっかり彼のズボンのベルトを握り締めていた。それはもう、がっしりと。
 やばい。絶対ベラルーシの不興を買う。
 と、床を蹴る乾いた音が振動となって床から伝わってきた。ベラルーシが動きを見せたようだ。
「いや、これは……ちっ、違うんだ、ベラルーシ、これには事情が……」
 プロイセンはだらだらと脂汗を流しながらしどろもどろに弁明を試みた。しかし恐ろしくて振り返れない。もしかしたらあの長く美しい髪がメドゥーサみたいなことになっているかもしれない、なんて突拍子もない妄想まで飛び出す始末だ。
 反響装置などないのに、かつん、かつん、と床を叩くヒールの響きがいやに鮮明で不気味だった。体の上に影が落ちたとき、プロイセンはもう目を開けていられず、ぎゅっとまぶたをきつく閉じた。
 ……が、意外にも足音は彼のすぐそばをあっさりと通り過ぎた。そして数秒後、ヒールは止まった。
「……?」
 プロイセンが恐る恐る目を開けると、数十センチ先で片膝をついてうつむいているベラルーシの姿があった。その視線の先にはもちろん彼女の最愛の兄。彼女はロシアの顔を真正面にとらえると、鼻先がかすめるほどの距離まで顔を接近させた。長いストレートの頭髪がカーテンのようにロシアの顔や首、肩を覆う。
 プラチナブロンドの美しいカーテンの中でいったいどんな形相が待ち受けているのか、プロイセンははらはらと見守った。別に見物なんてしたくないのだが、体勢的に間近で眺めざるを得ない。なにしろ、ロシアが腰にへばりついているのだ――つまり、彼の脚にもベラルーシの髪がべったりと広がっていることになる。ああ、髪が意志をもって動き出したらどうしよう。プロイセンは自分の突拍子もない想像に怯えた。
 一方ベラルーシは、この空間にプロイセンなど最初から存在しないかのように、ロシアに話しかけた。
「兄さん、ここは離れであって本家ではないわ。迷うなんてうっかりしてるのね。さ、帰りましょう。私が送っていきますから」
「う〜ん、う〜ん……」
 優しげなベラルーシの言葉に、しかしロシアは苦悶に満ちたうめき声を上げるばかりだった。
「お疲れのようなら私のうちでお休みください。兄さんが泊まるためのお部屋はちゃんと用意してあります――私の部屋の中に」
 兄以外眼中にないベラルーシは、プロイセンを空気中の窒素のごとく無視すると、ここには兄さんと私しかいない、とばかりの勢いでなんだか妙な空気を漂わせはじめた。プロイセンは鳥肌が立てながらも、自分のためにベラルーシの肩を持つことにした。これ以上、この問題ありまくりの兄妹に滞在されたくない。
「お、おい、妹が優しいこと申し出てきてるぞ! 答えてやれや!」
 プロイセンは、垂れ下がるベラルーシの髪の間からかろうじて覗いているロシアの頭頂部を軽く小突いた。狸寝入りを決め込むかと思いきや、ロシアはもぞりと首を動かした。
「ええと……しばらくこっちで仕事していくよ」
「兄さん……?」
「実は彼に用事があって」
 と、ロシアはそれまで体の横に放っていた左腕を持ち上げると、プロイセンを指差した。その動きを追うベラルーシの視線は、自然プロイセンのほうへ向けられる。長い髪の毛の間から、すべてを凍てつかせるような彼女の氷のまなざしを受けたプロイセンは、相手が反応する前に弾かれたようにヒステリックな悲鳴を上げた。
「やめろぉぉぉぉぉ! 見え透いた嘘つくんじゃねぇぇぇぇ! なんでそういうこと言うんだよ! 俺を巻き込むなっつってるじゃん! せっかく華麗にスルーしてくれてたのにぃ!」
 床に腰をつき、ロシアの片腕に巻きつかれたままの不自由な姿勢で、プロイセンはじたばたした。逃れようというよりも、居たたまれなさにじっとしていられなくて、といって様子だ。
 ベラルーシは、ゆらり、と垂れた髪をおどろおどろしく揺らしながら上半身を持ち上げると、
「いたのかジャガイモ男。そういえばここはおまえの小屋だったな」
 興味なさそうに、けれどもどこか威圧的にそんな感想を漏らした。プロイセンは両手を前に突き出して、それ以上近寄らないでくれ、と暗に懇願しながら、保身の言葉を模索した。この状況で全面的にどちらかの味方をすれば、必ずあとでもう片方の恨みを買う。さりとてどっちつかずな態度を維持しようものなら、双方からの皺寄せを一身に受けることになる。
 くそ、なんでこんなジレンマに悩まされなきゃならないんだ。無関係なのに。ちょっと癪だがリトアニアに応援を要請するか? やつはこの兄妹に対してはやたら打たれ強いことだし……いや、ロシアはともかくベラルーシの機嫌をさらに損ねる可能性が高い。ベラルーシからマイナスポイントを稼ぐのは避けたいところだ。
 葛藤のうちにうつむき沈黙に陥ったプロイセンだったが、ふと妙な摩擦音が鼓膜をくすぐっていることに気づいた。もしかして威嚇音だろうか。そんな動物じゃあるまいし、あり得ない、あり得ない……と自分を勇気付けるように彼は顔を上げた。と、剣呑さを増した氷の美女が視界いっぱいに映じる。はっきりしない態度の彼にストレスを感じたのだろうか。そのうち本気で髪の毛がざわざわと蠢き出しそうな迫力だ。
 ――ごめんヴェスト、俺今度の休みおまえんち行くっつったけど、あれキャンセルするかもしれねえわ。
 胃がきりきりと痛みを訴えるあたりを押さえながら目を閉じ、プロイセンはそんなことを思った。次の休みどころか、今日を無事に終えられる保証もない状況下で。


清純と不純のあいだ

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