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露普です。





空と海の向こう


 埠頭で眺める秋の空は、薄い青に染まっている。境界線のない空間を追えば、果ては水平線の向こうに消えていく。マリンブルーと呼ぶにはやや暗い色は、波の細い白に絶えず揺られていた。
 時折強い風が吹く。あと何週間かすれば、上空で笛のようにひゅうひゅうとした鋭い音色が響くようになるだろう。それは冬の足音だ。
 ブロックに腰掛け、ぼんやりと空と海を交互に眺めるプロイセンは、季節の変化に時の流れを感じた。いろいろなものが変わっていくのを見てきたが、ここ最近は特に移ろいが速い。眼前から消えゆき、造り変えられる街並。表を歩くたびに、足場が突然消失するような錯覚に襲われる。多分、喪失感と呼ばれる感覚だろう。
 季節が変わるように、街も変わっていく。ただ違うのは、季節は循環し同じ順序が繰り返されるのに対し、この街が同じ姿を見せることは、もうないということだ。彼の記憶に残る風景は、もう、戻らない。波に洗われ跡形もなく消え去る、砂浜の足跡のように。
 変わらないのは、海と空の青だ。生まれた頃からずっと。多分、彼が生まれるはるか昔から、同じ色だ。だからこの陸地の先に立つときに眼前に広がる空と海は、彼にほんの少しだが安息を与えた。
 とはいえ、澄んでいるはずの青空はどこか重たかった。冬の予兆だけが理由ではないだろう。鉛色の街の空気が上空までも侵食し、ひとつの閉鎖された空間を形成している。秋の高い空は、しかし圧し掛かってくるような閉塞感でもって彼を押さえつけた。この青の続く先に、彼は行くことができない。
 船舶の低い汽笛が鼓膜を揺らす。顔を上げれば、小型の軍用艦が港に乗り入れているのが見えた。
 しばらくその光景を眺めていると、やがてひとりの人物がこちらに向かって歩いてきた。長身にコートをまとい、首には緩めに巻かれたマフラー。
 はっとして、プロイセンはすばやくブロックから腰を上げた。が、すぐに動作を鈍くする。なんだ、逃げようとしたのか?――無益だというのに。彼は暗く笑った。ここを立ち去ろうにも、相手とすれ違うのは避けられないだろうが。ならば堂々と迎えてやればいい。
 プロイセンが過度に兵隊じみた直立姿勢を保っていると、ロシアがやあ、と軽く手を上げながら近づいてきた。いつものことながらにこやかだ。
「来てたのか。モスクワはいいのか?」
 プロイセンは、一度脱帽して挨拶したが、すぐにかぶり直した。停泊中の艦を一瞥してから、再度ロシアに視線を戻す。
「忙しいよ。いまはどこも」
「みたいだな。仕事中だろ? 早く戻れよ。サボりは感心しない」
 船舶と港の間で往来するソ連の兵士たちを見て、プロイセンが言う。ロシアはそうだねと同意しつつ、回れ右をする様子がない。
「きみは今日はお休み?」
 まるきり世間話の口調でロシアが尋ねる。プロイセンは、俺はサボりじゃないぞと断ってから、
「ああ。なんか故障で生産ラインが止まったってんで、仕事がない」
「それは困ったものだねえ」
「まったくだ。こんなんなら俺が直してやりたいくらいだぜ。許可出るわけねえけど。仕事あると疲れるけど、ないならないで落ち着かん」
「きみらしいね」
 平日仕事なしという状態にそわそわしているプロイセンに、ロシアがくすりと笑った。暇を持て余しているらしい。
「でも、どうしたの、せっかくの休みにこんなとこで黄昏れちゃって。まだ日は高いよ?」
「じきに落ちるさ」
 プロイセンは答えにならない回答を返した。しかしロシアは特に追及せず、そのまま会話の流れに沿うことにしたらしい。
「そうだね、もう大分日が短くなったからね。でも、モスクワはもっと冬らしくなってるよ」
「だろうな」
「ここ、あんまり冬っぽい感じがしないね」
 と、ロシアは海、空、そして陸を順番に眺めていった。プロイセンも遅れてその視線を追う。
「まあ、まだ本格的に寒くなっちゃないからな」
「でも、僕はこういうの好きだよ」
「何が」
「冬らしくないの」
「いや、そのうち寒くなるぞ、この街だって」
 この地の気候の変化については、プロイセンのほうがよく知っている。言ってから、彼は胸に自嘲が訪れるのを感じた。秋から冬へと向かう季節に、そのうち寒くなるなんて当たり前のこと、言ってどうするんだ。
 彼がちょっとうつむいている間も、ロシアは話を続けた。
「でも、ここは閉ざされないでしょう、冬の間も」
 そして、水平線の彼方に視線を向ける。
「こういうの、好きなんだ」
 氷結しない港。彼らはいま、そこに立っている。
 けれどもプロイセンは心のうちでうめいた――閉ざされているだろうが、ここは、いま。確かに自然はこの街を開放している。けれども、あんたがその手で閉鎖している。
 そして、彼の故郷は過去という時間の中に永遠に凍結された。皮肉だ。ここは凍らない港であるはずなのに。
 プロイセンは首を持ち上げた。唇が何か言いたそうに動くのが自覚されたが、何を言おうとしたのかは自分でもわからない。声は、出なかった。
 そのとき、びゅう、とひときわ強い風がふたりの間を吹き抜けた。プロイセンはかぶっていた帽子が飛ばされないよう頭に押さえつけた。と。
「――っつ!」
 突然、短く鋭い苦悶を上げた。彼は反射的に閉じた右目を指の腹で押さえた。
「いててて……」
 急に右目に鋭利な痛みが走ったのだ。強風に巻き上げられた異物が飛び込んだのだろう。まぶたの裏側がちかちかする。
「ごみでも入った?」
「……みたいだ」
 プロイセンはまぶた越しに強く眼球を圧迫した。手当てとしては正しくないが、力を緩めると痛みが増悪するので、手を離すことができない。異物を洗い流そうと生理的に涙が湧いてくる。指がぐっしょり塩水で濡れたところで、そろそろ大丈夫かとそっと力を抜きかけたが。
「痛っ!」
 再び痛みに見舞われ、結局また手の平で右目を覆う。
 見かねたのか、ロシアが苦笑とともに近寄ってきた。
「ほら、こすらない。眼球が傷ついちゃうよ」
「ん……わかってっけど、痛ぇんだよ」
「もう……ちょっと貸して」
 ロシアは、下を向いているプロイセンの顔をくっと上げさせると、右目を押さえつけている手を引き剥がした。すると、プロイセンは手の圧迫の代替としてぎゅっと目をつぶって苦痛に耐えようとする。片目だけの閉眼では力が入らないので、両方とも思い切り閉じ、眉間に皺を寄せている。右目のほうが涙の量が多いが、左からもいくらかにじんでいた。まぶたの裏側で眼球が動いているのがわかる。
 よほど痛いらしいが、このままでは埒が明かない。ロシアはため息をついた。
「目、開けて」
「無理だ。痛くて開けられん」
「仕方ないね」
 彼は左手でプロイセンの右手を握り込んで使えないようにしたまま、自分の右手を彼の顔に近づけた。涙に濡れた右目に指先を近づけると、親指と人差し指で上下の皮膚を強引に引っ張り、開眼させる。
「痛っ! ちょ、痛ぇって!」
 激痛に襲われ、プロイセンはびくんと肩を震わせながら悲鳴を上げる。が、ロシアは放してはくれない。無理矢理開けられた右目には外界の光が差し込むが、痛みのほうが勝り、視覚としては働かない。
 ばたついたために脱げた帽子が地面に落ち、風に転がされて埠頭の先にある金属の杭に引っかかった。


暗い夕焼け

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