露普です。普=カリーニングラードという特殊な設定です。トップのカリグラ設定の話とはつながっているようないないような。
暴力もエロもありませんが、普がひたすら痛がっててかわいそうだしかっこ悪いので、苦手な方はご注意ください。かなり電波な文です。
苦しみに、救いの手を
特徴も個性もない質素な集合住宅が立ち並ぶ区画には、すでに夜の影が忍び寄っていた。切れかけた照明がちらちらとストロボのように点滅する廊下。その扉の向こうにある、暗い空間。
独居用の狭い部屋には、一台の粗末なベッドが置かれている。その上で、プロイセンは横向きになって転がっていた。布団はない。いつのことだか定かではないが、床に蹴飛ばしてしまった。
彼はすでに皺くちゃになったシーツを左手で握り締め、ぐっと体の中心に向けて手足を屈曲させた。きつく握られた指先が震えている。もしシーツを手掌に挟んでいなければ、手の平に爪が食い込んでいただろう。けれども彼は、そんなことは気にもならなかった。もっと圧倒的な苦痛が、彼を襲っていたから。
体がひどく痛い。どこが、ということはない。全身が悲鳴を上げている。どこもかしこも痛いのに、いざどこが痛んでいるのだろうと考えると、どことも答えられない。けれども確かに痛いのだ。筋肉も、骨も、内臓も、感覚器も。あらゆる器官が不調和を起こしているかのようだった。しかし、彼は五体満足だ。欠けている部分はない。皮膚の一部でさえも。
闇の中で、彼は強く目を瞑っていた。絶え間ない痛みに耐えようと全身に力が入ると、自然と閉眼される。うめきの混じった浅い息を漏らしながら、彼は膝を抱え込むようにしてますます小さく丸くなった。
痛い。苦しい。
頭に浮かぶのはそんな単語ばかり。
果ての見えない苦痛に、彼はひとり耐えていた。痛みとは畢竟、誰とも分かち合えるものではないから。
もうどのくらいこうしているのかわからない。ふいに、苦鳴とともにうっすらまぶたを持ち上げると、光覚を感じた。屋外から差し込む、人工灯のオレンジ色だ。
いつの間にか開かれていたドアの前に、背の高い人影がある。逆光を受けて、その人物は音もなく室内に足を踏み入れた。一定の歩調でベッドの前まで来ると、立ち止まり、そこにうずくまるプロイセンを見下ろす。
「つらそうだね」
「ロシア、か……」
プロイセンは苦しい息の合間を縫って、かろうじて呟いた。そして何度か深呼吸をすると、両手を薄っぺらなマットレスにつき、緩慢に上半身を起こした。
「寝てていいのに」
「寝てようが起きてようが、痛ぇもんは痛ぇんだよ」
制止しようとするロシアに首を振り、プロイセンはベッドの上に座った。崩れた姿勢で、壁に背をついて。彼は肩で呼吸しながら、ちらりとロシアを見た。
「どうしたんだよ……指令なら通信で十分だろ」
「仕事じゃないよ」
「なら、なんだよ」
「きみがずいぶん苦しんでいると聞いてね」
「へえ。見物ってわけか」
プロイセンは鼻で嘲った。しかし苦悶のほうが色濃く滲んでいるため、腹立たしいというよりはむしろ痛ましかった。
無言で見つめてくるロシアの視線をうっとうしがるように身をよじると、プロイセンは何度かためらうように口を開閉させたあと、ぽつりと尋ねた。
「なあ、ヴェス……ドイツは、どうしている?」
彼はそこで何拍か置いた。呼吸は相変わらず荒い。
「……わからないんだ、あいつがどうしているのか。無事なのか、苦しんでいないか、うまくやっていけてんのか……。いや、細かいことはいい。無事なのかどうか、ただそれだけでも知りたい。頼む、教えてくれ」
外界から切り離された街。
それでも最初の頃はある程度情報の流通に接していられたが、最近封鎖が強化されたのか、外部との接触は間接的にすら困難な様相を呈していた。隔絶された街に閉じ込められた彼は、情報に飢えていた。わからないのだ。何も。情報の無は、不安と疑念という攻略しがたい怪物を生み出す。
「頼む……」
かすれた声で弱々しく、彼は懇願した。
ロシアはベッドに腰掛けると、壁際に寄っている彼を肩越しに振り返った。
「僕たちの敵は彼の味方のようだよ」
わかりやすいようなわかりにくいような表現で答えると、ロシアは片膝をマットレスに乗り上げさせ、体をひねった。腕を伸ばして、プロイセンの頬に手を伸ばす。
「そうか……」
プロイセンはロシアの手に触れられながら、目を閉じた。
まぶたの裏側に浮かんだのは、懐かしい顔と、憎たらしい顔。
あいつがこんな苦痛に苛まれていないのなら、ひとまずよしとするか。心配し出したら、きりがない。
そして憎たらしい髭面に向かって、彼は胸中で呟いた――不本意だが、あいつのことは頼む。俺はもう、どう足掻いても助けてやれないから。
そう考えたとき、ふいに痛みが増強した。痛覚が暴走しているのだろうか。本当に、どの部分が痛んでいるのかわからない。ただひたすら、疼痛という感覚が全身を支配している。
思い切りしかめられた彼の眉を見て、ロシアがちょっと手を引っ込めた。
「触られると痛い?」
プロイセンは、その反応を意外に思いながら答えた。
「いや……別に。そういうのじゃ変わらない。何をしようとされようと。そんなことで変わるような痛みじゃねえ」
彼は低いうめきを上げると、両膝を立ててちぢこまった。
「う……」
先ほど会話からすると、姿勢を変換したところで痛みは緩和しないだろう。しかしそれでも、膝を抱えて丸まらずにはいられないらしい。痛みに支配された人間の取る体勢。
「そんなに痛いの?」
プロイセンは膝に顔を埋めたまま動かない。
「怪我はもう治っているのにね」
ロシアの言葉に、プロイセンがくぐもった声で答える。
「怪我の痛みとは違う……こんなのははじめてだ」
「具合が悪いのはいつから?」
「さあ……ここんとこずっとだ。何日なのか、何週間なのか、何ヶ月なのか……痛みが退かないんだ、全然」
左手で右の手首をぎゅっと握る。どちらの手も震えていた。肩も肘も、緊張に突っ張っている。ロシアは一旦立ち上がり、部屋の明かりをつけた。そして再びベッドに戻ると、力の入ったプロイセンの指先をゆっくりと解かせた。耳の下辺りにちょっと触れてやると、意図を察したのか、のろりと顔を上げた。照明の下で改めて眺めると、ひどい顔色だった。
「うわ、真っ青。隈もひどいじゃないか。その顔からすると、ろく眠れていないようだね」
ぺとりと額に手の平をつける。発熱はしていない。むしろ体温は低かった。蒼白な顔が示すとおりに。
しかし、それ以外には目立って悪いところはない。痛みとそこから来る不眠のために消耗している様子であったが、外傷はないし、炎症の徴候もない。
それでも彼の顔は苦痛にゆがんでいる。
「こんな痛みがあるなんて知らなかった。ガキの頃叩きのめされたときも、都を落とされたときも、占領されたときも……ここを奪われたときだって、こんな痛みはなかった」
ロシアは膝立ちになると、浅い呼吸をする彼の背を何度か撫でた。触ってもさらに痛むことはないようだが、気休めになることもないだろう。
と、視界の斜め上に直角が映った。それは、壁に貼られた地図の一端だった。このあたりを俯瞰する、やや縮尺の大きな地図。国境線や地名の変更に伴い改められた、最新の版だ。
ロシアにとっては自明のように映じるキリル文字。一文字ずつ追うまでもなく読み取れる。カリーニングラード。この街のいまの名前だ。
それ以外にもたくさんの地名がある。すべてロシア風に改名されたものだった。いまベッドに崩れている男の頭の中には、これとは違う名前で記されているに違いない。
ロシアは彼の頭頂部に視線を落とした。色の薄い金髪が、寝癖で少しだけ跳ねている。
「受け入れなよ。それしかないんだから」
「……何を」
プロイセンはわずかに頭を動かしただけで、顔を上げようとはしない。ロシアは続けた。
「きみが僕のものだということを。もう彼のところへは帰れないということを」
と、上体を屈めると、壁に前腕を突いてプロイセンの顔を覗き込んだ。
「きみの体の変化は不可逆的なものだ。元には戻らない。戻すつもりもない。きみだってわかっているはずだ。その苦痛の理由が」
「……………………」
プロイセンは唇を引き結ぶと、意識的に強く目を瞑った。
ああ、そうだ、わかっている。この痛みを引き起こしているものの正体が。
これは破壊の痛みではない。蹂躙され、壊滅に追いやられたときの苦痛とは違う。再生や治癒の過程に伴うものとも違う。確かに故郷は完全なまでに壊された。そして、復興した。けれども、それは再建ではなかった。
言うなれば、これは改造だった。かつての姿を微塵も残さず、別の街につくり変えられた。短期間で、例を見ないほど見事に。この変貌に、彼は苦しめられているのだった。肉体を引き裂かれるのではなく、変えられる痛み。経験したことのない苦痛だった。ぼろぼろだったときのほうがまだましだったかもしれない。破壊に伴う痛みは何度か経験して知っている感覚だった。けれども、つくり変えられる痛みははじめてで、その得体の知れない苦痛は、恐怖とも言えた。終わりのない疼痛が、魂までも蝕むようだった。
瞳を閉ざしたままのプロイセンの耳に、ロシアがささやく。
「でも、苦痛の原因は変化そのものじゃないと思うよ。変化という一面だけで考えるなら、もっともダメージが大きかったのは、間違いなく、破壊された直後だっただろうから。でも、直されたいまのほうがきみは苦しんでいる。しかも、強い痛みが現れたのは復興の過渡期を過ぎてからでしょう。それは、街の新しい姿をきみが拒否しているからだよ。すでに体は変わっている。でも、認識がそれに追いついていないんだ」
プロイセンは沈黙を保っている。
ロシアは彼の横髪を後ろへと撫でつけた。
「きみがその苦痛から解放される唯一の手段は、完全に僕の一部になってしまうことだ。それを認めなければ、きみは永遠にその苦痛に苛まれるだろう」
「認めている。受け入れているさ。……俺はすでに、ドイツではなくなった」
うつむいたまま、プロイセンは片腕をのろのろと持ち上げ、こつんと壁にぶつけた。地図を示しているようだが、震える指先は、うまく紙面に触れられない。
「言葉でそう言っていても、いや、頭でそう思っていても、心がまだ受容できていないんだね。だから、そんなに苦しい」
と、プロイセンは弾かれたように突然声を荒げた。
「うるさい! 認めている、認めている、認めている! わざわざ言うな! あんたに言われるまでもない! わかってる、わかっているんだ! もう、もう、俺は! おれ、は……」
絞り出すように、彼は叫んだ。しかし、そうしている間も体は痛みに縛られている。やがて力を失い、彼は前方へ崩れた。ロシアの胸にすがるように、体が傾く。
「俺は……あんたのもの、なんだろう……それが、事実なんだろう、現実、なんだろう……」
「そう。それが事実。否定し得ない現実だよ」
抑揚のない肯定が返ってくる。プロイセンは下を向いて唇を噛んだ。
ロシアは彼の上半身を支えながら、静かな声を落とした。
「哀しいね。人間だったら心だけでもどこかへ逃避できる。でも、僕たちはそうはいかない。時の流れの中で起きた出来事を、そのまま受け入れるしかない。きみはこの事実から逃れられない。目を背け続けることはできない」
「はっ……つまんねえ説教を……んなこた、とっくの昔からわかってるっての。何百年、生きてると思ってんだ……」
「なら、顔を上げたら? まっすぐ前を見たら? 僕の顔を正面にとらえたら?」
プロイセンのせめてもの憎まれ口を切り捨てるように、ロシアが立て続けに言った。厳しい口調ではなかったが、声は冷たかった。
プロイセンは、肩を掴んでくるロシアの手を振り払うと、ようやく自発的に面を上げた。赤い双眸が、キッとにらみつけるように相手に注がれる。しかし、それも数秒のことだった。途絶えることのない痛みに引きずられ、彼は自分の腕を抱きこむようにその場にうずくまる。
「……ったく、この期に及んで、なんで俺はしぶとく生きてんだか。こんな姿になってまで。こんなふうにつくり変えられてまで。街は歴史の足跡を失った、あんたの望む姿に変わった、名前も変わった……なのに、なんでそれでもまだ、俺はこの地にいるんだ。なぜいまだにこの地は俺であり続けるんだ……」
「さあ……なぜだろうね」
背を丸めるプロイセンの肩を、ロシアはそっと起こさせた。
「さっきより苦しそうだね」
「ふん……いい眺め、だろ……あんたに、とっちゃ、さ……っく、う……」
プロイセンは皮肉っぽく口角をゆがめたつもりなのだろうが、苦しんでいるようにしか見えない。事実、苦しんでいるのだろうけれど。
ロシアは彼の肩を押すと、ベッドに倒して寝かせた。
「僕のうちの子が痛がってるのを見ても、楽しい気分にはなれないんだけどな」
「何を……」
仰向けになるのは久しぶりのような気がした。痛みから逃れたくて逃れたくて、気づけば横向きになって胎児のような姿勢を取ってばかりいたから。
真正面にはロシアの顔。段々と降りて、近づいてくる。
「苦痛からの解放を。それだけを考えるといいよ、いまは」
唇に他人の呼気を感じる。
少しだけ、痛みを忘れた気がした。
→天使のいない場所
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