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病院には似つかわしくない看守然とした出で立ちの若い兵士ふたりが構える扉の前に、長身の青年が現れる。彼を見た兵士たちは、直立になって敬礼をすると、音を立てないよう慎重に開錠した。 青年が一人用の小さな病室の扉を開くと、一メートル先にはベッドの足元があった。靴底が床を叩く音を極力消しながら数歩進むと、彼が声を掛けるよりも先に、ベッドの上の住人が彼の名を呼んだ。 「ロシア、か……?」 一目で戦傷者とわかる傷を負った男は、低い枕に頭を沈めたまま、わずかに首を通路側に捻って来訪者へと視線をやった。片目をガーゼで覆われているため、視界が狭いのだろう。裸の上半身は六割ほど包帯やガーゼに覆われ、露出している皮膚も元の色を留めている箇所は少なく、裂傷や打撲による変色が散見された。それ以外にも、全身状態の悪さから来る色の悪さが全体に見受けられた。 「そうだよ」 ロシアは、片方だけ覗いている青い瞳を見つめながら返事をした。ガーゼを当てられた左目は、眼球自体は無事で視力にはおそらく影響しないだろうという医師の見立てだった。仰々しく白い布で覆われているのは、周辺にできた裂傷の治療のためらしい。片側だけでロシアの姿をとらえる彼の瞳は、本来よりも幾分光が鈍かった。 彼――プロイセンは、息漏れのするかすれた声で尋ねた。 「ドイツは……ドイツはどうしてる?」 「彼なら無事だよ。少なくともきみよりは軽症。まあ、比較の問題でしかないんだけど」 ロシアは硬い円形のシートがついた粗末なパイプ椅子に腰を下ろした。ロシアの言葉を聞いたプロイセンは、何かに突き動かされるようにして、骨折した腕でマットレスを押し、起き上がろうとした。ロシアは焦らなかった。というのは、いまの彼には自力で体を起こせるだけの力がないことを知っていたから。 「行かないと……」 「行く? どこへ?」 ロシアは彼が体を動かさないよう、やんわりと肩を押さえた。軽度だが広範な火傷に蝕まれた部位に軽い圧が掛けられたためだろう、彼の面に苦痛が走る。彼は目をきつく閉じて痛みに耐えると、再びゆっくりとまぶたを持ち上げた。その瞳は、眼前の光景をとらえていないようだった。 「あいつのとこ、行ってやらないと……」 それを現実の行動とする能力がないことを無視して、彼はなかばうわごとのように行かなければと繰り返した。傷のもつ熱にうかされた瞳に潤まされた瞳は、本来の鋭さを失っていたが、それはそれで美しい色合いだった。ロシアは、そこに自分の姿が映っていないことを少し残念に感じた。 「無茶だよ。どれだけ怪我してると思ってるの」 「行かなきゃ……俺は、あいつのとこに、行かなきゃ……」 「駄目。動かないで。それに、動けたところできみは彼のところには行けないよ」 そう言ってやると、プロイセンははっと目を見開いた。そしてようやくのことでロシアの顔を映した。揺れる瞳は、絶望感よりも驚きが先立っていた。 「行けないんだ」 念を押すようにロシアが告げる。プロイセンはまばたきも忘れて凍りついた。数秒の沈黙のあと、彼はささやきに近い小声で問うた。 「どう、して……」 「前にも一度話したと思うけど……きみはもう、彼と一緒にはいられないんだよ。僕らの間でそう決まったから」 大雑把に説明するロシアの声音は落ち着いていた。対照的に、プロイセンは焦燥に駆られたトーンで、聞き分けのない子供のように繰り返し繰り返し、同じことを言った。受け入れ難い現実を精一杯否定するその声すら、力ないものだったけれど。 「嫌だ……俺は、ヴェスト、あいつのそばに……」 ベッドの上でろくに身動きの取れない状態で、それでも彼は起き上がろうと足掻いた。何よりも大切な家族のもとへ行こうと。そばにいたい相手、そばにいてほしい相手――ただそれだけを求めて。 感情の乱れから来る興奮に呼吸を浅くする彼の動きを柔らかく抑制しながら、ロシアは独り言めいた呟きを落とした。 「……もう、無理なんだよ」 プロイセンはいやいやをするように首を緩く左右に振り続けた。その瞳には、そばにいるはずのロシアの姿はやはり映じていなかった。 ***** 何十日かぶりに遠隔地の病院に足を運ぶと、彼は病室を移されていた。容態が落ち着いたということだろうか、職員の構えるステーションから少し遠くなっていた。やはり個室だが、場所からして以前の部屋よりは日当たりがよさそうだ。扉の前には兵士がひとり配備されているだけだった。 ロシアが入室したとき、彼はベッドの上で座ろうとしているところだった。布団や後頭部の髪がぐしゃぐしゃに乱れている。どうやら直前まで寝ていたようだ。人の気配を察して慌てて起き上がったのだろう。寝巻きの襟が内側に折れていた。包帯やガーゼはおおむね外れており、傷の残る皮膚の変色も大分落ち着いてきたようだった。まぶたの傷はほとんど癒えているらしく、彼は両目でロシアの姿をとらえてきた。 「起きられるようになったんだ」 感心混じりにそう言ったロシアだったが、プロイセンは自力で座位を保つのに早々に根を上げ、枕をクッション代わりにしてベッドの頭側の柵に背をもたれさせた。明らかに不調そうだ。しかし彼は眼球をぎょろりと動かし、改めてロシアに一瞥をくれた。病院に収容されて間もない頃には鳴りを潜めていた剣呑な輝きが、わずかながら再び瞳に舞い戻っている。 「……何のつもりなんだ」 開口一番尋ねてきた彼に、ロシアはおどけたように肩をすくめて見せた。 「いきなりそんな質問されても答えられないよ。何についての話題なのかわからないもの」 真っ当といえば真っ当な返しをするロシア。プロイセンは相手をキッとにらみつけながら、質問の内容を改めて言い直した。 「なんで、こんなお粗末な警備の病室に俺を置いておくんだ。格子すらないただの病室に、拘束もなしに放り込んどくなんて。しかも二階ときたもんだ。なめられたもんだな」 彼は首を傾けて視線を窓へと向けた。窓枠にはさすがに内鍵はなかったが、格子が取り付けられているわけでもなく、ごく一般的なつくりの部屋だった。ガラスの向こう側に広がる景色は、比較的近くに地面が見え、この個室が低い階にあることが一目瞭然だった。彼の現在の立場を考慮すれば、とんでもなくぞんざいな収容場所だ。 挑発的なまなざしで指摘してくる彼に、ロシアはやれやれと首を振った。 「その体に拘束は無意味でしょう。ぼろぼろでろくに動けないんだから」 「回復は順調だ」 そのことを示すように、プロイセンはパジャマの袖を肘まで捲り上げて見せた。裂傷や火傷の跡が薄く残ってはいるが、順調に治癒の過程を歩んでいることがわかった。 「怪我のほうはね。でも、体力はどうかな」 ロシアはベッドの右横に立つと、腰を屈めて腕を伸ばした。プロイセンはあからさまな警戒の色を覗かせたが、抵抗や拒絶はせず、その場にじっと座っていた。ただ眼光は手負いの獣にも似て、触れるなとばかりに相手を射抜いていた。が、ロシアはそれを気にもせず、捲られた袖から見える右手首を掴むと、そっと浮かせた。 「やせたね」 病的に静脈の浮き出た手の甲に触れれば、内側にある骨のこりこりとした感触が伝わってきた。 「動いてねえからな。筋肉ってのは、使わねえとあっという間に衰えちまうもんさ」 プロイセンは無造作に手を引っ込めようとしたが、ロシアに手首を軽くきゅっと握られると、一瞬眉をしかめたもののそこで動きを止めてしまった。ロシアは自分の手の上に力なくだらりと乗せられた彼の右手を眺めた。元から節くれていたであろうその手指は、やせたために一層骨ばって見えた。 「衰弱してきてる」 「へえ」 ロシアがぽつりとこぼすと、プロイセンは関心のなさそうな相槌を打った。だからどうした、とでも言いたげに。ロシアは彼の指を一本ずつ、壊れ物に触れるかのような手つきでさすっていった。 「きみはたくさん失ったから。きみをきみたらしめていたものを」 「そうだな。俺はとっくに消えてるはずの存在だ。なのに、なんでまだいるんだろうな。あるいはもうすでに亡霊なのか?」 退廃的な皮肉の笑みが口の端を彩る。明るい色をしているはずの瞳も、いまは鈍く暗かった。 「きみは死なないよ」 彼の頬を指の背で撫でながらロシアが告げる。彼は不思議そうにかすかに首を傾げた。 「なぜ? プロイセンは滅びた」 自分が輪郭を失った存在であることは彼自身承知している。だからこそ、彼は現状が理解できなかった。なぜ自分はいまだ生きながらえているのか。 ロシアは彼の両頬を手の内側にとらえて少し横を向かせると、ゆっくりと顔を近づけた。そして、小さな声で言う。 「きみはこれまで、名前もあり方も拠りどころも変えながら生きてきた。きみはそういう存在だ。だから、これからもそうなるだけだよ」 「今度ばっかりは無理だろ」 即座に否定するプロイセン。が、ロシアもまたすぐに首を横に振った。 「僕があっさりきみを死なせてあげると思う?」 「奪えるもんは奪ったはずだろ。これ以上何を求める? 俺にはもう、何も残っていない」 彼は疲れたように目を伏せた。座って話すだけでも消耗したようだ。ロシアはぼんやりと半分だけ開かれた彼の瞳を覗き込んだ。 「それでもきみは生き延びるよ。カリーニングラード」 新しい名前で彼を呼ぶ。当然ながら、何の返事も反応も返ってはこなかった。
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