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行き場


 体の傷は癒えてきたものの、彼の不調は長引き、もはや病室が彼の住処となりつつあった。不定期に激しい苦痛を訴えたり、唐突に高熱を出したかと思えば翌日には動けないほど体温が低下したりと、安定しない体調に悩まされ続けているようで、ロシアがいつ病室を見舞っても、彼は疲れた顔をしていた。それでも彼は、ひどい体の痛みに蝕まれているとき以外は(一度彼が原因不明の激しい痛みに耐えているところへ顔を出してしまったことがある)、つらいとも苦しいとも漏らさなかった。
 病室から彼がいなくなった。
 あるとき病院を訪れると、職員からそう告げられた。彼の病室の周辺が騒然としている理由を知ったロシアは、もぬけの殻となった個室を一度覗いたあと、ひとり建物の外へ出た。彼は窓を外して抜け出したようだった。言ってみれば脱走だが、ロシアは眉をしかめるよりも先に、まだ彼にそれだけのことをやってのける体力と気力があったことに素直に驚いた。とはいえ、彼の体調の悪さが詐病でないことは明らかだったので、あんな弱りきった体でどこをふらついているのかと心配にもなった。
 再建の進む街の、まだ舗装のすんでいない道路を当てもなくさまようロシアだったが、不思議と足取りに迷いはなかった。何度か角を折れて進んでいくと、まだ取り壊されていない廃墟の並ぶ区画へと入った。埃っぽい道路を数十メートル直進し、何かに引き寄せられるように路地に迷い込む。そうして狭い道を縦横に歩き回ったところで、突き当りへと入り込んでしまった。が、彼は踵を返すことはせず、古い時代の木箱が無造作に放置された路地を窮屈そうに進んだ。そうして箱の裏側へと出たとき、その影でひとがひとりぐったりと座っているのを発見した。彼はロシアの出現にぴくりとも動かず、老朽化した箱の側面に体重を預けたまま四肢を投げ出していた。その不気味な静けさにロシアは一瞬嫌な心地を覚えたが、膝を折って屈み込み、彼の顔の前に手をかざすと、静かながら一定のリズムで呼吸を刻んでいるのがわかった。その頬にそっと手を触れさせて顎を上げさせる。日中とはいえ建物の影となっている路地は薄暗く、顔色はよくわからなかったが、体温の低さからして、おそらく蒼白な顔をしていることだろう。
「そんな体でどこへ行こうと言うの」
 責めるでも呆れるでもなく、ただの疑問のような口調で尋ねるロシア。プロイセンは一瞬相手と目を合わせたが、すぐにそっぽを向いてしまった。そしてぶっきらぼうに一言。
「……おまえのいないとこ」
「困ったな。きみはもう僕のものなのに」
 ロシアは端的な彼の答えに微苦笑を漏らしつつ、足元に目線を下ろした。寝巻き姿の彼は当然ながら裸足だった。片付けのされていない戦いの跡地を歩き回ったためだろう、足は土と血でべったりと汚れていた。ロシアは一度立ち上がるとコートを脱いだ。そうしてから再び腰を落とすと、彼の肩を掴んで背を箱から離させ、自分のコートを掛けてやった。冬ではないが、まだそれなりに冷える季節だ。ただでさえ具合が悪いのだ、寝巻き一枚では体に障るだろう。
「よかったよ、逃げ出そうと思えるくらいの気力が残ってて」
「体力はねえみたいだがな」
 プロイセンは疲れ果てた声で自嘲気味に答えた。ロシアは彼の腕を取ると、コートの袖に通させてやった。彼は自発的にはまったく動かず、されるがまま、相手に任せきりだった。
 コートの留め具を掛けたところで、ロシアは彼の胸の前に右手を差し出した。
「立てる?」
 プロイセンは首を振ることすらせず、ただぼんやりとうつむいているだけだった。ロシアはため息をつくと、彼の脇の下に手を差し込んだ。
「仕方ないね。まあ、その足じゃどのみち歩きづらいかな」
 数回の試行錯誤のあとで、動く力のほとんど残っていない彼の体を背負うことに成功したロシアは、転んだり壁にぶつかったりしないよう気を遣いながら、往路よりもずっと遅いペースで来た道を戻っていった。
 脱力しきったプロイセンの体は意識がない人間とたいして変わらず、自力でバランスを保てない分ずっしりと重たく感じられた。だが、コートから覗く彼の手や脚は記憶にあるよりもさらにやせているようだった。

*****

 帰り道は思っていたよりも長かった。行きは感じなかったが、けっこうな距離を移動していたようだ。
 病室に彼を連れ戻したロシアは、ベッドに彼を座らせようとした。が、久しぶりの長い移動に疲弊した彼は自分の体を支えきれず、危うく後ろへ転倒しそうになった。糸の切れた操り人形のよう、というのはまさにいまの彼にふさわしい表現だろう。
「わりぃ」
 ロシアに腕を引っ張られ、なんとか転ばずにすんだ彼は、弱々しい声でそれだけ言った。ロシアは彼をベッドに寝かせてやりながら、思わず大丈夫かと尋ねそうになったが、すんでのところで言葉を呑み込んだ。大丈夫か否かなんて、聞くまでもない状況だったから。
 看護師に足の手当てをしてもらう間、彼は無言で天井を見つめていた。消毒が傷にしみる痛みに反射的に膝が浅く曲がる以外は、微動だにしなかった。看護師と警備兵と入れ替わりにロシアが再び病室に入ると、プロイセンはベッドの柵を握り締め、なけなしの力で起き上がろうとしていた。ロシアは慌てて彼のそばまで駆け寄ると、崩れそうになる彼の体に腕を回して支えてやった。
「どうしたの」
 ロシアに顔を覗き込まれたプロイセンは、ふいっと横に背けながら、小声で答えた。
「ここ、嫌だ」
 子供のわがままのような言葉に、ロシアは困ったように眉を下げた。
「病院を好きになれないのはわからないでもないけど……でも、いまのきみはりっぱな傷病者だから」
 何年も白っぽい部屋に閉じ込められていたら、嫌になるのもうなずける話だったが、解放してやるには彼の体はあまりに弱っていた。戦傷は確実に治っているのに、体調は一向によくならない。むしろ徐々に悪化しているかもしれない。見えない何かに蝕まれるように。時折、彼は二度とこの部屋の外で生きることはできないのではないか、とさえ感じる。もし彼自身もそう感じているとしたら、気が滅入るのも仕方ないだろう。説得の言葉に窮したロシアがしばし沈黙に陥っていると、ふいに彼が小さく唇を動かした。
「そうじゃない」
「え?」
「そうじゃないんだ」
 唐突な否定の言葉。それが何に対する否定なのか理解しかね、ロシアは目をぱちくりさせた。
「じゃあ、どういうこと?」
 問われたプロイセンは重たげに腕を持ち上げると、人差し指を窓に向けた。
「窓、いらねえ」
「窓?」
「景色、見たくない。この部屋は、外がよく見える……」
 彼は自らが指し示す窓のほうへ一瞬目線をやったが、すぐにうつむいてしまうと、自分の体を抱くように二の腕を反対側の手できゅっと掴んだ。
「嫌なんだ……見るの。俺じゃない……ここから見える景色は、俺じゃないんだ……」
 ロシアは改めて窓の外を眺めた。病院のような大きな施設のある区画はすでに再建と開発が進み、ソ連風の無機的な印象の建物が立ち並んでいる。ロシアは、ああ、と納得してうなずいた。見慣れた街並が消え別の姿に変えられていくさまを、この部屋から刻一刻と見つめ続ける。彼にとってそれは耐え難いことなのだろう。衰弱した体を引きずってでも逃げ出したくなるくらいに。彼がまだ整理の済んでいない廃墟の路地裏に迷い込んだのも、きっとそれが原因に違いない。彼にとって、たとえぼろぼろであるにせよ、かつての自分の姿を確かめられる場所だから。
 気がつけば、腕の中にある彼の体がわずかながら震えていた。呼吸は熱くないが、もしかしたらこれから熱が上がるかもしれない。長い間この部屋の内側でだけ生活している彼の体に、突然の外出は負担が大きかっただろう。
「今日はもう休もう?」
 ロシアは彼の上半身を倒して枕に頭を乗せると、掛け布団を肩まで引き上げてやった。
「手間、掛けさせたな」
「いいよ」
 ばつが悪そうに言ってくる彼の額を軽く撫でたあと、ロシアは夕日の差す窓辺へと歩いていき、カーテンの端を摘んだ。
「閉めたほうが?」
「そうしてくれ」
 答えたあと、プロイセンの目が一度だけロシアのほうへ向けられる。それを見たロシアは、一瞬違和感を覚えた。彼の瞳が、奇妙に赤みを帯びているように見えた。が、確かめようにも彼はじきにまぶたを閉ざしてしまった。夕日の光がきついせいだろうか。
 怪訝に思いながらもロシアは彼に頼まれたとおりカーテンを閉めるとベッドサイドに腰を下ろし、力なく目を閉じて眠る彼の顔をしばらく眺めたあと、病室を出ようと腰を上げた。と、足元で何かがきらめいた気がして視線を下ろした。見れば、カーテンの隙間から差し込む陽光が、ごみ箱に突っ込まれた何かに反射しているようだった。おもむろにごみ箱を持ち上げて中を確認すると、そこには割れていくつもの破片と化した鏡が放り込まれていた。はっとして洗面台のほうを振り向くと、壁に取り付けられていたはずの鏡がなくなっていた。彼の状態からして、病室に戻ってから壊したとは考えにくい。おそらくここを抜け出す前に割ったのだろう。しかし、いったいなぜ。何が彼をそうさせたのか。
 床に落ちるわずかな夕日を見下ろしたロシアは、ぞくりとした感覚に襲われた。本来なら暖かく感じられるはずのオレンジ色の夕日に、不気味な冷たさが宿っているような気がした。


ものを食む

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