text


要救助者一名


 日曜日ももう残り三分の一になろうかという刻限、紫色の空の下ようやく帰途についたドイツは、玄関に入るやいなや、中から名前を呼ばれた。とはいっても、いくつもの扉と壁にぶつかった音波は反射と減衰によって聞き取りづらくなっていたが。もっとも、姿を見ずとも声の主は特定できる。なにやら焦燥感に駆られた声音だ。しかし、声が響くだけで本体は現れない。
 何があったのだろうか。いや、何をやらかしたのだろうか。
 これだけ慌てた調子の彼ならば、ドイツの帰宅を知ったと同時にドアというドアを蝶番など無視して力ずくでこじ開け、走り寄って来るぐらいのことはしかねない。ほとんどタックルのような勢いでドイツに飛びついてきても不思議ではない。しかし、奇妙なことに――こんなことを奇妙だと感じるのは嫌だったが――相手は一向に姿を見せない。ドイツを呼ぶところを見ると、逃げ隠れしなくてはならないことをしでかしたわけではなさそうだが。
 いつもの不法侵入者――プロイセンが、いるのに出てこないというちょっとした謎について考えていたドイツは、つい黙り込んで当てもなく自宅の中を歩いていた。すると。
「おい! 帰ったのか!? 帰ったんだろ!? 聞こえてるなら返事しろよ! 早く!」
 ひときわ大きなプロイセンの声が、バスルームのほうから聞こえてきた。いま立ち止まっている場所から十歩もない距離だ。
「ああ、聞こえている。いま帰ったところだ」
 プロイセンの大声につられるように、ついドイツの声量も上がる。グラウンドの端同士で会話しているような感覚だ。
「あーもうどこいってたんだよ、この一大事に!」
「いや、オーストリアが迷子になったと電話をしてきてな、ハンガリーと手分けして捜索活動をしていた」
「あの野郎、まだ方向音痴直らねえのかよ。はっ、絶対頭頂葉悪いよな、あいつ」
 わざわざ悪口まで声を張り上げる。相変わらずだな、とドイツは思った。
「ところで、どこにいるんだ?」
 だいたい場所は特定できているが、なぜそんな方向から声がするのか、そしてどうして姿を見せないのか――別に大型犬よろしく帰宅を歓迎してほしいわけではないが――ドイツは首を傾げた。
「トイレだトイレ。早く来い。っつーか来てください早く!」
 命令と懇願の入り混じった答えが返ってくる。
「来たぞ。どうした? 腹でも壊したか?」
 ドイツはトイレの前まで行って立ち止まると、ノブに手を掛け軽く力を入れた。が、ノブはわずかに動いただけだった。ロックされているようだ。
「おい、開かないぞ。鍵が壊れて出られないのか? それとも腹痛で動けないのか?」
「いや、鍵も腹も壊れてねえ。ただ、出るに出られないんだよ」
「どういうことだ?」
 ドイツが尋ねると、プロイセンはしばしの沈黙のあと、気まずそうな声音で言った。
「その……はまった」
「はあ?」
 聞き返したのは、声が小さかったからというより、短すぎて理解できなかったからだ。すまん、よくわからなかったんだが、とドイツが言外に説明を求めるが、プロイセンは同じ言葉を大きな声で繰り返すだけだった。
「だから、はまったんだよ!」
「はまったって……意味がわからないんだが」
「言葉そのまんまだよ、はまったんだ!」
「いや、何を言っているのかわからん」
 ドイツは頬をぽり、と掻いた。
「とにかくドアを開けろ。でないと状況がわからん」
「はまってるのにどうやって開けろって言うんだ」
 状況説明する気がまったくなさそうなプロイセンに、ドイツは小さくため息をつくと、相手には見えていないとわかりつつうなずいた。
「わかった、こっちから開けてやる。硬貨があれば外からでも回せるからな。ちょっと待っていろ」
 と、ドイツがズボンのポケットをごそごそと漁ってコインを探していると。
「どうしたんですかドイツ、騒々しい」
「ああ、オーストリアか。ちょうどよかった。コイン持ってないか。なんでもいいから」
 自分の服には硬貨が入っていないらしいと判断したドイツは、やって来たオーストリアに聞いたみた。オーストリアは、つい数十分前まで迷子になっていたことを恥じ入る様子もなく堂々としている。よく知るその声を聞いて、プロイセンは慌てた。
「げっ、オーストリア!? いるのか!? っつーか、なんでこんなやつつれて来るんだよっ」
「いや、不法侵入よりいいと思うが」
 と、ドイツが正論を言いかけたとき、
「この声はプロイセン? また勝手に上がりこんでるのねー」
 追い風――プロイセンにとっては向かい風――が吹いた。彼はますます驚いた。
「ハンガリーまで!?」
 中で何をやっているのか、外にいる三人にはわからなかったが、なにやら水音と衣擦れの音が聞こえてくる。
「何してるの、プロイセンのやつ? ここ、トイレよね?」
 ハンガリーが扉を指差す。ドイツは肩をすくめるしかない。
「俺にもわからん。なんか出られなくなっているらしい」
「ああ、それでコインが必要なんですね。どうぞ」
 オーストリアが硬貨を一枚渡す。ドイツは受け取ると、扉の外側に設けられた、鍵を回すための細いくぼみにコインの縁をはめた。がちゃん、とすぐに開錠される。ドイツが改めてノブを下ろそうとしたところで、プロイセンの慌てふためいた叫びが漏れてきた。
「ちょ、ちょっと待て、やっぱ開けるな!」
「そう言われても、自宅のトイレに立てこもられたら俺が迷惑だ。あ、さっき不穏な音がしていたが、ズボンはちゃんと穿いているな? 俺やオーストリアはともかく、ハンガリーもいるんだ、変なものを見せるのはよくない」
「何が変なものだ!――って、開けるなってぇぇぇぇぇ!」
 プロイセンの悲痛な願いむなしく、ロックの解けたドアはあっさりと開放された。
 一時的な開かずの扉の先に展開する光景を目の当たりにした三人は――
「……!? おい!?」
「これはこれは……」
「すごい! 便器に丸ごとすっぽり!!」
 息を呑む男性二人に対し、ハンガリーは状況を端的かつ的確に表現した。
「うわ、ちょ、見るな、見るなって、見るなぁぁぁぁぁぁ!!」
 プロイセンは声帯を痛めるのも構わずに、呼気の許す限り叫んだ。
 ……腰を便器に沈めた姿で。
 彼はなぜか便器にはまっていた。それはもう、見事なまでに、すっぽりと。
 ドイツは絶句した。いや、当初のプロイセンの説明どおり状態なわけだが、まさか言葉のとおりになっているとは思いもしなかった。混乱する頭の片隅で、便座が上がっていることに気づかずに座ってしまったのかと考えたが、プロイセンはちゃんとズボンを着用している。そのため、最低最悪の見苦しさは回避されているものの、なぜこの格好で便器にはまるなどという事故が起きるのか、皆目見当がつかない。いくらなんでも、着衣のまま用を足す趣味なんてないだろうに。
 困惑のあまり段々わけのわからない方向に思考が逸れていくドイツだった。
 プロイセンはプロイセンで、このような姿を目撃されたことでパニックに陥ったらしく、膝から先を無意味にばたつかせているが。が、かなり深く沈みこんでいるのか、つま先がかろうじて床をかすめるだけだった。
「だぁぁぁぁぁ! もうっ、だからっ、見るなって! 見るな―――!!」
 プロイセンは、無駄だとわかっていながらも足掻かずにはいられない。しかしちょっとやそっといまさら暴れたところで、ドイツの帰宅まで努力に努力を重ねても脱出不可能だった便器から解放されるはずもなく。
「ぷっ、ふっ、あはははははははは! ちょ、ちょっと、なんですかこれ! すごいですはじめてみました、便器と合体してるひとなんて!」
 ついに我慢しきれなくなったらしいハンガリーの、無邪気といえば無邪気な笑い声が、狭いトイレの中で残酷にこだました。
「ハンガリー、だ、ダメですよ、ひとの不幸を笑っては……」
 ハンガリーに注意をするオーストリアだったが、彼もまた、手で必死に口を押さえて小刻みに震えていた。
「ご、ごめんなさい……でも、これは笑わずにはいられないです……だって、すごい光景……」
 いまにも痙攣しそうな腹筋を一生懸命落ち着かせようと、ハンガリーは笑いの源たる光景に背を向けた。しかし、その程度であのインパクトが頭から去るわけもなく、彼女は壁に手を突いて必死に笑いの衝動を堪えた。正直なところ、涙が出るほど笑えてくる。オーストリアはあからさまに目線を逸らし、極力プロイセンを視界に入れないようにしながら、笑いの衝動を凌いでいる。もっとも、ふたりとも情動の波に完全に逆らい切れてはいなかったが。
「くそぉぉぉぉ! なに笑うの必死で我慢してるんだよ! なんか余計むかつくぞ! いっそ笑え!!」
 プロイセンは彼らとは別の意味で目にちょっぴり涙を溜めながら、ほとんどやけっぱちに叫んだ。羞恥と屈辱で頭に血が上り、顔だけでなく耳まで真っ赤だった。
「……いったい何があったんだ?」
 ぽつりと静かな声が落ちる。ドイツはひとり取り残されたというか、笑うタイミングを逸したようで、どうリアクションを取っていいのか困っているようだった。そんな彼を見て、プロイセンはちょっと冷静さを取り戻し、
「この状況見て真顔なおまえは、それはそれですごいな……」
 彼を見上げながら、感心したように呟いた。
「いや、いまいちばんすごいことになってるのは間違いなくおまえだと思うが」
 何をどうすればこんなことになるんだ、とドイツは額を押さえた。今日も彼の頭痛と胃痛は絶えないようだ。


救助活動開始

実は海外ドラマの一幕から拝借したネタだったりします。元ネタわかる方は同世代かも……?

top