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救助活動開始


 込み上げる笑いといまだ格闘中のハンガリー及びオーストリアのことはひとまず放置し、ドイツはトイレの中に入ると、便器にはまり込んだ人物を見下ろした。
「それで、どういった経緯で便器と合体するに至ったんだ? 何があったのかさっぱり想像がつかん。時系列に沿って説明してくれ」
 小難しい顔で呆れているドイツから、プロイセンは気まずそうに目を逸らし、ぼそぼそと話し出した。
「あー、えーと、だな……トイレ入ったら途中で電球切れたんで、替えようと思ったんだよ」
 彼は人差し指を扉のほうへ向けた。ドアの手前十センチほどの壁際には、白熱電球が落ちている。ドイツはそれを拾い上げて確認する。少し埃をかぶっているところを見ると、切れたほうの電球らしい。
「なんでおまえがうちの電球の保管場所を知ってるんだ……と尋ねるのは愚問か……」
「で、球替えてたんだけど、天井の高さが微妙じゃん? 背伸びして回してたらバランス崩して後ろに倒れて……」
 プロイセンはそこでこほんと咳払いをしてから続けた。
「……倒れた先に便器があったってわけだ。これで全部だ。わかったか」
 このびっくり仰天な光景ができあがるまでの過程をわざわざ言語化させられたことがおもしろくないらしく、プロイセンはやや開き直り気味に言った。横柄な口調を叩いたところで、便器に沈んだままの体勢では情けないだけなのだが。
 言葉にして表せばなんとシンプルな。たったそれだけの理由で、ひとがひとり、便器にはすっぽりまったなんて。
 ドイツは、サイレント時代のコメディ映画のような展開に露骨に眉をしかめた。呆れてため息も出ない。
「それではまって抜けなくなってこの状態か……横着しないで踏み台を持って来ればよかっただろう。自業自得だ」
「だってよ、なんか届きそうじゃん、これくらいなら。実際途中までは回せたんだし」
 プロイセンは天井を指差した。ソケットにはすでに新しい電球が入っている。しかし、点灯はしていない。
「そういえば暗いな。電球自体は新しくしたんだな? まだ回りきっていないから点かないのか」
 ドイツはちょっと背伸びをして体重をつま先側に掛けると、プロイセンが途中まで取り付けたという電球を回し切った。そしてトイレの外の壁に手を伸ばしてスイッチを入れると、薄暗い室内にぱっとオレンジ色が満ちた。
「よし、明るくなった」
 ドイツが振り返ると、彼の一連の行動を見ていたプロイセンが、ますます不機嫌そうに唇を噛んでいた。彼はドイツと目が合うと、
「……おまえ、どこまで嫌味なんだよ!」
 便器から伸びる足を懸命にばたつかせてドイツの脛を蹴った。もっとも、あたるのは指先だけの上、まるで力の入れられない姿勢なので、威力はない。
「なぜ蹴る」
 ドイツは怒りはしなかったが、面倒くさそうに言いながらすっと半歩下がってプロイセンの蹴り足から逃れた。
 トイレの虜囚となったプロイセンを改めて眺めつつ、ドイツは尋ねる。
「ところで、いつからそうしてるんだ?」
 プロイセンはちょっと逡巡したあと、ためらいがちに口を開いた。
「……さ、三時間くらい。いい加減腰とか尻とか痛いし冷たいんだよ! 早く助けろ!」
 命令調だがどこか悲痛な叫びとともに、プロイセンは両手をばたばたとドイツのほうへ伸ばした。ドイツは無言でうなずくと、再び前へ進み出て、彼の手を取った。
 そして、思い切り自分のほうへ引き寄せる。
 が。
「いだだだだだだだだっ! や、やめろ、腕が抜ける!」
 プロイセンが悲鳴を上げて制止した。腰が便器から開放される前に、自分の腕が体からおさらばしそうだった。実際、関節がみしっというのが聞こえた気がする。
 ドイツも力技だけでは危険だと判断したのか、彼の手を一旦離し、顎を撫でながら次なる一手を考える。
「すごいな、びくともしない。本当にすっぽりはまっているのか」
「変なとこで感心すんな」
「ふむ……腕だけ引っ張っても仕方ないか」
 と、ドイツはおもむろに床に膝をつき、便器の横に回ると、プロイセンの背と膝の裏に腕を差し込んだ。突然の不可解な行動に、プロイセンはちょっぴり不安そうに疑問符を浮かべる。
「お、おい?」
「掴まっていろ」
 プロイセンは言われるがまま、目の前にあるドイツの肩を掴んだ。ちょうど横抱きされるようなかっこうになっているのだが、狭い空間内では自覚できなかった。
 ドイツは腕でプロイセンの肩甲帯と膝を支えると、そのまま体ごと斜め前方に持ち上げようとした。
「いっ……!?」
 突然の浮遊感にプロイセンは素っ頓狂な声を上げた。それに引き続いたのは、解放を告げる歓声ではなく――
 みしっ!
 ――という嫌な軋み音だった。
 便器の底部が床から剥がれかける、との警告らしい。
 ドイツは諦めて腕を外した。床ごと破壊したら水浸しになりそうだ。
「駄目か……すごいフィットぶりだな」
「なんかいまミシっつったぞ、ミシって! どういう馬鹿力してんだよ!」
 プロイセンが慄きながら叫んだとき、外からひょっこりと特徴的な黒髪の跳ねっ毛が覗き込んできた。オーストリアだ。もう笑いの発作は治まったようで、いつものすまし顔に戻っている。
「摩擦を減らしてはどうですか?」
 言いながら、彼がドイツに手渡したのは、詰め替え用ボディソープだった。
「なんでおまえがうちのバス用品の保管場所を知っているんだ……?」
「愚問ですよ、ドイツ」
「まあ、別にいいが」
 ドイツはそれ以上は追求せず、受け取ったボディソープの袋を開封した。石鹸の香りがふわりと広がる。彼はその切り口を便器に近づけると。
「うわ、冷て! ちょ、冷たいって!」
 便器の中に納まっているプロイセンの下半身に垂らしていった。
「ぎゃ、なんかぬるぬるするし! ちょ、まじ冷てぇ!」
 プロイセンの訴えをまるっと無視してソープの袋を空にすると、ドイツは真顔で聞いた。
「少しは滑りがよくなったか?」
「や、よくわかんねえよ、こんなん。なんか……服の上から石鹸って気持ち悪いんだな……」
 石鹸でどろどろのぬめぬめになった自分の腰を見下ろしながら、プロイセンが力なく呟いた。フローラルな香りがむせ返るほど漂ってくるのがまた一段と哀しさを誘う。
 と、そのとき、前方から不自然な強い光が瞬いた。
 はっと顔をあげると、そこにはデジタルカメラを覗き込んでいるハンガリーの姿があった。
「おまっ、ハンガリー! なに写真撮ってんだ!?」
「私のことは気にしないで。救助に専念して」
「ゆするつもりか!? ゆするつもりなんだな!? 俺の恥をネタに!!」
 ハンガリーの存在を思い出したプロイセンが、顔を紅潮させながら叫ぶ。しかし、彼女はふるふると首を左右させると、神妙な面持ちで答えた。
「そんなことしないわよ。ただ私は、このような不幸な事故が一般の家屋で起こりうるということを世間に伝えることで、人々の、特に子供やお年寄りのトイレ事故の危険性について警鐘を鳴らしたいだけ」
 胸に手を当てて真面目にそう語りつつ、もう片方の手はカメラのボタンを押している。
「すばらしい心掛けですね、ハンガリー」
「そうだな、珍しいケースだから記録しておく価値があるだろう」
 オーストリアとドイツは、不幸な事故の減少に取り組みたいというハンガリーの主張に関心しているようだった。
「真面目に評価してるんじゃねえよ! それってつまり曝露するってことだろ!? やめろよちくしょぉぉぉぉ!!」
 プロイセンだけが拒絶の咆哮を上げた。それはもう、切実に、切羽詰って。ちょっとだけ泣きが入っていたが、本人は気づいていない。とにかく必死だった。
 けれども、彼らの耳にはきっと届いていないに違いない。


試行錯誤

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