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試行錯誤


 オーストリア案の摩擦を減らしてみよう作戦は、結局プロイセンがソープまみれになっただけに終わった。ズボンの生地の下まで染み込んだ液体石鹸のぬめりが気持ち悪くて仕方ない。
 途中、救出に全力投球しているドイツが、試しにズボンを下ろせるだけ下ろしてみてはどうかというとんでもない提案を出した。しかも三対一で可決され、実行に移されかけたのだが、ボタンとファスナーが解放されただけで、布はほとんど動かなかった。このときばかりはプロイセンは、便器にきつきつにはまり込んでいることを感謝した。
 いろいろな意味であられもない姿の彼を前に、ドイツはいよいよお手上げというように、肩をすくめて息をついた。
「……抜けないな。骨盤がつっかえている。これはもう、プロに任せたほうがいいだろうな」
「プロ?」
 きょとんとしてドイツを見上げるプロイセン。引っ張られたり持ち上げられかけたりしたために、体のあちこちが軋んでいる。彼は制限の多い不自由な体勢の中でなるべく楽なポジションを見つけようと身じろいでいる。
「待っていろ。消防に連絡をする」
 そう言って、ドイツは踵を返して距離を取ると、携帯電話を取り出した。と、途端に背後からがなり立つ抗議の声。
「救助隊呼ぶ気か!? やめろ、こんな姿さらせるか!」
「しかし、このままでは埒が明かないだろうが。そんな体裁を気にしなくても、救助の専門家は救助に専念するだろう」
「けどよぉ!」
 プロイセンの主張を無視し、ドイツは開け放っておいた扉の外に出た。出入り口の横でデジカメを構えているハンガリーが尋ねる。
「トイレにはまって救助要請する人って年間どれくらいいるのかしら? ドイツのうちではよくある事故なの?」
「聞いたことがないが、たまにはあるかもしれない」
「私も聞いたことないかなあ。あったらワイドショーで紹介されそうよね」
「やめろっつってんじゃん!」
 必死に叫ぶプロイセンに、ドイツは肩越しに振り返った。
「だが、いつまでもそのままというわけには行かないだろう」
「いやだ! やめろ! 消防は呼ぶな! この先何年か伝説として残りそうじゃん!」
 ドイツの指が携帯のちまちましたキーを押そうとしたまさにそのとき。
「確かに、救助隊が来たところで抜けないでしょうね、これだけ見事にはまってしまっていては」
 ドイツに代わってオーストリアがトイレに入ってきた。彼はプロイセンをしげしげと見下ろした。
「な、なんだよ、また笑いたくなったのかよ」
「いいえ、それは大丈夫です。もう慣れましたから、この光景にも」
 カチンときたプロイセンが歯を剥き出す前に、オーストリアはドイツに助言した。
「これはもう、砕くしかないんじゃないですか? 多分救助隊員もそう判断すると思いますよ」
「くだ……っ!?」
 オーストリアの口から出た、彼に似合わないちょっとばかり荒っぽい単語に、プロイセンは絶句した。しかし、ドイツはそうは感じなかったようで、同調するように手をぽんと打った。
「それもそうか。しかし、このメーカーのセラミックはかなりの強度だから、砕くにしても普通の金槌では難しいだろうな」
 ドイツはプロイセンの前に戻ると、壁際に避けてスペースを空けたオーストリアの横にしゃがみ、拳にした指の第二関節でこんこんと便器を叩いた。セラミックの少し高い澄んだ音がする。音源の正体をしらなければ、心地よい音色かもしれない。
「あ、これ使う?」
 破壊手段を講じているのか黙り込んでいるドイツに、ハンガリーが自前のフライパンを渡した。プロイセンは口をぱくぱくさせるばかりだ。
「ふむ……これは丈夫そうだな。しかし、面が広いからうまく一点を叩けるかどうか。……まあ、とりあえず試してみるか」
「ま、まじかよ……!?」
 プロイセンは、信じられねえ! と目を見開いてドイツを凝視した。ドイツは至近距離で彼を見つめ返すと、
「なるべく振動させないようにする」
 安心させるようにぽんと片手を肩に置いた。もう片方の手にフライパンを構えた状態で。ああ、ここまで来たらこいつもう止まらないし止められないな、とプロイセンは現実逃避気味に、他人事のようにぼんやりと思った。
「脚は上に上げていろ。当たったら危ない」
 ドイツはプロイセンの両足を揃えると、自分の左肩にふくらはぎを置かせた。後方に重心がずれたため、プロイセンの背中が少しずれ下がる。
「わ、わかった、やってもいい。でも、う、うまくやれよ!? ほんと、うまくやれよ!? 大事なパーツがすぐ近くにあるんだからなっ、間違っても潰すんじゃないぞ!?」
 おまえも男ならこの恐怖を理解しろ! とプロイセンは声を張り上げた。ドイツは準備運動のようにフライパンを空振りさせながら、
「善処する」
「嘘でもいいから『保障する』って言ってくれ!」
「では、いくぞ」
 ドイツは真剣そのものといった表情だ。その様子にプロイセンはますます身の危険を感じずにはいられなかった。
「ひいぃぃぃぃぃぃ……」
 彼はひどく情けない声を上げると、驚異的な柔軟性を発揮して、なりふり構わずドイツの首に腕を回してしがみついた。
「おい、抱きつくな、それこそうっかり外してしまうぞ」
「だ、だって、だって……」
 ぶるぶると首を横に振るプロイセンは、ちょっぴり涙目だ。ドイツは、はあ、とため息をついた。
「……肩は掴んでていい」
「そっとだぞ、そっと! 絶対優しくしろよ!? 痛くすんなよ!?」
「わかったわかった」
 視界が遮られないようプロイセンの腕の位置を調節してから、ドイツはフライパンを振り下ろした。
 カキン! と金属とセラミックが対決する甲高い音が波紋を広げる。当然、その衝撃はセラミックの虜であるプロイセンの体をも突き抜ける。
「……っ!」
 彼は足首とつま先を一直線にぴんと伸ばすと、声に鳴らない悲鳴を上げた。
 何度か耳に優しくない衝撃音が響き、そのたびにプロイセンがびくんと体を震わせていたが、やがて――
「……やめるか。これ以上叩いたら、便器より先にハンガリーのフライパンが壊れそうだ」
 決着がつく前にドイツが優勢判定を下した。
「フライパンの心配が先かよっ!」
「やはりこのメーカーのセラミック技術はすばらしいな」
 とんちんかんな感想を漏らしながら、ドイツがハンガリーにフライパンを返す。と、彼はふいに顔を上げた。
「そうだ。確か物置に使えそうな物があったな……少し待て」
 彼はプロイセンの腕を解き脚を下ろすと、足早に廊下へ出て行った。
 残されたプロイセンがぽかんとしていると、客人ふたりがひょいと覗き込んでくる。
「大丈夫ですか? 体に悪そうな姿勢ですけど、腰痛になったりしてませんか?」
「み、見るな!」
「さっきからずっと見てるのでいまさらです。慣れたから大丈夫だと言っているでしょう」
「何について大丈夫っつってんのかわかんねえよ!」
 プロイセンは脚を蹴り上げるが、ハンガリーがオーストリアをドアのほうへ引き寄せて回避させた。
「ほら、オーストリアさんに八つ当たりしないの。あんたが勝手に便器にはまったんでしょうが。なんかここまですごいと、救助特番への出演願望があるんじゃないかって、疑いたくなっちゃうわ」
 デジカメをちらつかせるハンガリー。脅しだ。これは言外の脅迫だ。
 プロイセンは便器に囚われたまま、精一杯背筋と腕を伸ばした。届くはずもなかったが。
「いますぐ消せ! 消してくれ! 消してください!」
「だから、暴れないの。危ないでしょ、お互いに。もー、さっきからそんなことばっかして。無理して動くと本気で腰痛めるわよ?」
 一応労わりの言葉らしきものを投げかけてくれたハンガリーだが、プロイセンは気づかなかった。
 彼らが騒々しく言い合いはじめて二分ほど経ったところで。
「待たせたな」
 ハンガリーの横からドイツが再度姿を現した。
 その片手には、どこかで見たような機械が抱えられていた。
 人間工学的に設計されたらしい握りの部分と、その先から伸びる、螺旋を描きながら金属の光沢を放つそれは……。
「おい、それって……」
「ドリル?」
 工事現場でけたたましく鳴り響いていそうな機械だった。


問題解決

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