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民間療法


 騒乱の週末を終えて迎えた月曜日。
 早朝、陽光の差し込む角度がまだ深い時間帯から、ドイツの家は朝の静寂とは無縁の状況にあった。
 寝室の空気を低周波の振動が揺らしている。一定の細かいリズムで刻まれるそれに揺さぶられるのに合わせて、わずかにビブラートのかかった人声がうめき声のように響いていた。
「あ、あ、ぁ……あ……。ん……あっ、そこそこ。うん、そこがいい、そこが。ん〜……」
 ベッドにうつ伏せになったプロイセンは、胸の下にクッションを敷き、組んだ腕に顎を乗せて低い声を漏らしつつ、時折深々と息を吐いた。その合間に、代名詞ばかりの指示を出す。
「ここか」
 やはり代名詞で尋ね返しながら、ドイツは振動源を移動させた。
「そう、そこそこ。あ〜……気持ちいい……」
 腕に顔を埋めて、リラックスしているというか心の底からだらけきった声で呟く。しばらくその位置で満足していたプロイセンだったが、やがて面を上げて肩越しにドイツに振り返った。といっても、この体勢での首の可動域では、相手の姿をとらえることはほとんど不可能だったが。
「な、もう少し強くしてくれ。あ、あくまでそーっとだぞ。乱暴にすんなよ?」
 プロイセンに注文されるまま、ドイツは強弱の調節目盛りを指先で回した。途端にうなりが高く強くなる。
「……おわ!? い、いだだだだ! ちょ、ちょっ……痛い、痛いって――この下手くそ! あ、ごめん、いまの嘘嘘、だから止めてくださいお願いストップストップ! まじやべえよこれ振動強すぎだって! も、もうちょっとだけ弱くなんねえ?」
 つま先をバタ足のように交互に跳ねさせながら、プロイセンが待ったを掛ける。ドイツはやれやれと方をすくめた。
「注文が多いぞ」
「だ、だって痛いのヤだし」
「ならやめるか」
 ドイツの至極当然な提案に、プロイセンは非難がましい声を上げる。
「えー! やだ、続けろ。痛くならなきゃこれ気持ちいいんだよ。おまえがうまく加減すればけっこういい感じだぜ?」
 ぷぅ、と頬を膨らませながら首をねじって見上げてくるプロイセン。ドイツは開いているほうの手で自分の側頭部を押さえると、はあ、とため息をついた。
「病院に行ったほうがいいと思うんだが。こんな申し訳程度の民間療法はやめて」
 言いながらも、プロイセンの依頼どおり、作業は続けてやる。
 ドイツの手には、電動の加圧マッサージ器が握られている。こんなものを購入した覚えはないのだが、プロイセンに言われたとおりに物置を探したらなぜか棚に収納されていたという、謎の代物である。かれこれ三十分ほど、ドイツはプロイセンの腰痛治療に従事させられているのだった。科学的根拠の希薄な民間療法に異議を唱える彼に、しかしプロイセンは頑として譲らない。
「んー……やだ。だって事情話したくねえもん。これ以上恥をさらせるか。……あ、もうちょっと右。………………っあ〜、まじ気持ちいいわこれ。どこのメーカーだっけそれ? ウチか? それともアメリカ? 日本? まさかフランスじゃねえよな。フランス製品で気持ちいいのは屈辱だ。あとオーストリアも嫌だ」
 こんなときでも個人的敵愾心は忘れないらしい。ドイツは指示通り右方へ器械を移動させながら、
「俺が買ったわけではないからよくわからんが……日本製のような気がする、この無駄なハイスペックぶりを見るに」
 手元のスイッチやらメーターやらボタンやらを眺めた。コンパクトだが、妙にサブ機能が多そうなつくりである。この手の器械の用途なんて限定されているだろうに、こんなに機能を詰め込む必要があるのだろうか、と思わず首をひねりたくなるような、意味のよくわからない高性能仕様だった。
「言っておくが、ぎっくり腰は立派な傷病だぞ。恥ずかしがることはない。年配者でなくとも患うことはある」
「ぎっくり腰じゃねえ。ただちょっと筋を違えただけだ」
 単語の訂正を求めるプロイセンを無視して、ドイツは適当に手を動かした。振動音に紛れてときどき、あー、とか、うー、とかいった低い声が漏れてくる。
 しばらく両者無言で治療に専念していると。
 ピルルルル、と高い電子音が鳴り響いた。マッサージ器からではない。ふたりは同時に顔を上げた。
「おまえの携帯じゃね? このなんのひねりもないデフォルトのコール音は」
 プロイセンが揶揄するように鼻を鳴らす。と、ドイツが真顔で返した。
「ハンガリーにフライパンで殴られたときの音を着信音に設定しておくよりは余程まともだと思うが」
 さらりと一息で指摘され、プロイセンはさらに背中を伸展させてドイツを見る。
「て、てめえなんでそれ知って……!!……うっ、いででで……。っつーか、なんでわかったんだよ、あんな効果音だけで?」
「……当てずっぽうだったんだが。本気でそんなものを着信音にしていたのか……」
「てめ、謀ったな!」
「いや、ほんとに適当に言っただけだ。できれば知りたくなかったぞ」
 プロイセンの言葉に、ドイツはちょっぴり、しかしあからさまに引いた様子で呟いた。何度か耳にしたことのあるプロイセンの携帯電話の奇妙な着信音――鈍い打撃音――の正体について、はからずも大正解を導き出してしまったわけだが……こういう気味の悪い事実については、知らないでいたほうがよかったかもしれない。
 怒りと痛みに交互に喚いているプロイセンから離れ、ドイツはテーブルに置いてある携帯電話を取りに行った。コールはすでにやんでいる。
「メールか。ん……? ハンガリーからか、珍しい。噂をすれば、というやつだな」
 ディスプレイに表示された名前を見たドイツは、ベッドのほうを一瞥した。視線の先には、ぽかんと口を開けたプロイセンの顔があった。
 プロイセンは目をしばたたかせながら、ドイツに問う。
「え、おまえあいつのアドレス知ってんのか?」
「ああ」
 あっさりとうなずくドイツに、プロイセンは納得のいかないといった調子でさらに質問を重ねる。
「ど、どうやって聞き出したんだよ」
「いや、別に聞き出した覚えはないが。確か普通に教えてもらった気がする。何年も前のことだから覚えていない」
 ドイツは携帯電話のボタンを操作しながら答える。ハンガリーからのメールの本文には、プロイセンはあのあとどうしたのかとか、病院へ行ったのかとか、トイレは治ったのかとか、あれこれと質問文が並んでいた。
 ドイツがメールを読んでいる傍らで、プロイセンのいささか恨みがましい呟きが漏れる。
「なんだこの敗北感……」
 ちらりとドイツを見る。ドイツは目線だけをプロイセンのほうへ向ける。
「個人情報だから俺からは教えてやれんぞ」
「わかってるよ」
 むー、と唇をへの字に結んでプロイセンがぼやいた。
「む……画像ファイルつき?」
 画面をスクロールさせた先に、リンクがあった。ドイツは不思議そうにそこへカーソルを移動させた。そのとき、プロイセンが腕を突っ張って上半身を持ち上げた。
「画像って……まさか!……っ〜〜〜!!」
 しかし、急な体勢変換が痛めた腰に響いたのか、そのまま突っ伏すようにしてベッドに沈んだ。
 無理に動くな、と彼に忠告しながら、ドイツはディスプレイをしげしげと見つめた。
「ふむ……ファイル名がpreussenになっているが……おまえへの用件ということか?」
 親指の位置と動きから、ドイツがファイルを開こうとしているのが推測された。プロイセンはまだダメージを引きずりつつも、
「ちょ、ま、待て待て待て、開くな……!」
 必死の形相で叫んだ。ベッドに這いつくばってろくに動けない状態での命令では、なんの強制力も発揮できはしなかったが。


お見舞い

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