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独の犬たちが出てくる話です。
お父さんとお母さん」と同一設定です。





お母さんは心配性



 何かと小うるさい主のいない広い屋敷でプロイセンはひとりの夜を満喫していた。掃除も洗濯も洗い物も何もしていない。といっても、別にサボっているわけではなく、何もしなくていいむしろしないでくれとドイツに言いつけられているからだ。すでに自分のライフスタイルが確立しているドイツにとって、プロイセンのやり方であれこれ家の中を引っ掻き回されるのは落ち着かないらしい。また、プロイセンに家事を任せるとドイツ自身が行うより水道料金光熱費その他諸々の経費がかさむというデータが出ているとのことだった。そのため、プロイセンが家事労働に従事するのはもっぱらドイツが一緒のとき(というよりドイツの監督下)でのことだった。
 しかしそれでも、出張前、ドイツはプロイセンに自宅に泊まりに来てくれるよう要請した。というのは――
「いやー、たまには父子水入らずで過ごすのも大事だよなあ。おまえら、お母さんいるとどうしてもお母さんのほうに懐いちゃうもんな」
 留守中の犬たちの世話を頼むためである。プロイセンに予定が入っているときはペットホテルに預けるのだが、そうでなければこうして泊まりで犬たちの面倒を見てもらうのがある種の習慣になっていた。以前ペットホテルを利用した際、環境の違いがストレスとなったらしく、三匹のうちの一匹が餌を食べなくなってしまったことがあり、ドイツはひどく心配することになった。そのため、なるべく親戚に頼むことにしていた。ほとんどの場合、プロイセンに依頼するわけだが(最近は頼まなくても勝手にやって来る)。
 そのような経緯でひとり泊まりに来ていたプロイセンは、ドイツがいないのをいいことに、好き放題ごろごろしていた。リビングの床に折りたたみ式のマットレスを敷き、その上に寝転がってふかふかの布団をかぶり、テレビを横目で見つつ、ライトなエロ雑誌を眺めるという、優雅なひとときを満喫する。それは、ドイツが目撃したらただちに撤収させられるであろう光景だった。
 しばし真面目な表情でビニール本の女性の尻を凝視することに没頭していたプロイセンだったが、ふいに慌しい音が段々と大きくなってきたことに気づいた。顔をを上げると、三十度ほど開かれたドアの隙間からアスターが首を覗かせているのが見えた。アスターは一瞬プロイセンを目を合わせたが、すぐにあたりをきょろきょろ見回して視線をさまよわせると、リビングの中をうろつき出した。サイドボードやソファの影、テーブルや椅子の下、果てはごみ箱の中にまで顔を突っ込む始末である。何かを捜し求めての行動であることは明白だ。プロイセンはそんなアスターを眺めて苦笑した。
「おーいアスター、そんな必死に探し回ってもお母さんは見つからないぞ。いまあいつニューヨークだからよ」
 プロイセンが話しかけるが、アスターは見向きもせずに一心不乱にドイツを探し続ける。主人のいない寂しさにきゅんきゅんと悲しそうな泣き声を漏らしながら。
 ドイツが出張に発って以来、アスターはずっとこんな調子で主を求めて家中を駆けずり回っていた。おそらく、自力でドアを開けられる場所はすべて探索したに違いない。
「ったく、お父さんいるってのに。そんなにお母さんがいいのかねえ」
 プロイセンとて、寂しがっているアスターを最初からほったらかしにしていたわけではなく、ちゃんと遊び相手をしてやっていた。アスターもしばらくの間はお父さんに構ってもらえるのが嬉しかったようだが、次第にお母さんを恋しがるようになり、もはやプロイセンの手には負えなくなった。やっぱりお母さんにはかなわないか、と痛感せずにはいられない。
 一方、ほかの二匹は落ち着いたもので、主の留守にも特に動じた様子はなく、いつもどおりの生活をしていた。いや、プロイセンが堕落した生活態度を取っているため、いつもよりちょっとだらけ気味ではあったが。
 雑誌のページを繰りながら、プロイセンはもぞりと脚を動かした。
「ブラッキー、そこくすぐったいって。あんま鼻擦り付けてくるなよ。そんなにお父さんの股間が好きか?」
 と、彼は布団を捲って中を覗き込みながら尋ねた。布団の下では、ブラッキーが彼の足の間に収まるようなかっこうで寝そべっていた。ちょうど鼻先が股間の位置に来ているので、ブラッキーが顔を動かすとこそばゆく感じられた。しかし、文句を言いつつも彼はブラッキーを追い出そうとはしなかった。躾に厳しいお母さんがいないときくらいべっちょり甘えさせてやってもいいじゃないか、なんて駄目なことを考えているお父さんだった。
 かわいい犬をはべらし上機嫌のプロイセンが布団越しにブラッキーの背中を撫でていると、テーブルの上から唐突に電子音と細かい振動音が鳴り響いた。本来ならフルートで演奏されるべきクラシカルな曲をチープな電子音に奏でているのは、彼の携帯電話だった。
「ん? この曲はヴェストだな。ベルリッツ、悪いがお父さんの携帯取ってきてくれ」
 プロイセンは、自分よりよほど熱心にテレビのサッカー中継を視聴していたベルリッツに指示を出した。試合が単調で退屈なせいか、ベルリッツは特にしぶることもなく、すぐに起き上がってテーブルのほうへ足早に掛けていった。後ろ足だけで立って前足をテーブルの縁に掛けると、ぐいっと首を伸ばして携帯電話のストラップを軽くくわえる。そしてそのままプロイセンのそばまで足早に移動すると、手の平の上にぽんと置いた。
「よーしよし、いい子だなー、ベルリッツ」
 プロイセンはベルリッツの顎の下を指の腹で撫でてやりながら、反対の手で携帯電話を開いた。ディスプレイにはMuttiという文字が表示されている。
「喜べ、お母さんから電話だぞ〜」
 子供たちにそう予告してから、彼は通話ボタンを押して本体を顔の横に添えた。
「よお。どうした、忘れ物でもしたか?」
 挨拶もなくいきなり尋ねる。まあ、この質問が挨拶代わりといったところなのだが。相手もそんな彼の対応には慣れているようで、よどむことなくすぐに返答してきた。
『いや、仕事のほうは問題ない。予定通り進んでいる。あー……特に用事があるわけではないんだが、その、ちょっと心配でな。ブラッキーたちとうまくやっているか?』
 プロイセンと犬たちのことが心配で確認の電話を掛けるという行為に若干の照れがあるらしく、ドイツは少々歯切れ悪く聞いてきた。出張のたびにこんな電話を入れてくるのだから、いい加減自分の性分だと思って割り切ればいいのに。
「大丈夫だって。おまえの留守預かるのはじめてじゃないし、こいつらだって俺に懐いてるし。それより子供たちが心配で電話してくるとはさすがお母さんだな。でも、そこは嘘でも『あなたの声が聞きたかったの(はぁと)』なんて言ってくれると、お父さん嬉しいんだけどなー」
 唐突に夫婦ごっこをはじめたプロイセンに、ドイツは数秒の沈黙ののち、深刻そうな声音で尋ねた。
『……何か悪いものでも食べたのか? 犬用の缶詰なら人間が食べても問題はないはずだが。人間の舌には普通合わないだろうが。もしかして散歩中に変なものを拾い食いしたとか? 兄さんがそうしたいなら止めないが、犬たちにはおかしなものを食べさせないでくれ。頼む』
「その返答は冷たすぎるぞお母さん」
 見えない相手に向けて唇を尖らせるプロイセン。ドイツは頭の痛そうな声で答えた。
『すまんがつき合いきれないんだ……』
 犬絡みの話題でプロイセンにお母さん呼ばわるされること及び彼がお父さんを自称することについてはもう諦めてしまった感のあるドイツだったが、エスカレートするごっこ遊びにはついていけなかった。というより、ついていきたくない。彼があまりにお母さん呼びを続けるものだから、最近ではそう呼ばれるとナチュラルに反応してしまうことがしばしばあった。それどころか、自ら彼をお父さんと呼んでしまったことが一度だけだがあった(そのときの彼のにやついた笑みといったら、実に小憎たらしかった)。確実に洗脳というか蝕まれているドイツだった。
 電話口から聞こえてくる呼気の漏れる音を察知したプロイセンは、不可解そうに眉をしかめた。
「どうした? ため息なんかついて。会議で疲れたか? おまえのことだから、また成り行きで仕切り係りになったんだろ」
『それは毎度のことだからいまさら疲れるほどではない。心配しないでくれ。それより、散歩は朝夕一回ずつ行ってくれたか?』
「おう、ちゃんと行ってきたぜ。おまえがいないせいかちょっとそわそわしてたけど、まあいつもどおり行って帰ってきた。粗相もしないし、みんないい子だぜ」
『それはよかった。いい子にしてたらちゃんと褒めてやってくれ。それから、餌は時間と量を守ってくれ。特にブラッキー。あいつ太りやすいからな、ウエイトコントロールには気を遣ってやらねば』
「神経質だなー」
『かわいいからといってやたらと間食を与えては駄目だぞ。一日分の摂取量は表にしてまとめてあるからそれを参考にしてくれ。冷蔵庫に張ってある』
「わかってるって。ちゃんと確認してる」
 しれっと受け答えつつ、プロイセンは布団のシーツを見下ろした。食べこぼした菓子の油分が染み込み、ところどころ黄色く変色している。さすがに直接犬たちに人間用のスナックを与えたりはしていないが、食べかすがいつのまにか消えているところから察するに、彼のおこぼれをおいしく頂いてくれたのだろう。ドイツが帰宅する前にシーツを取り替えて証拠隠滅を図ろう、とプロイセンは決めた。行儀悪く耳の穴をほじりながら。
 そんな彼のよろしくない態度など見えないドイツは、さらに質問を重ねてくる。もちろん愛犬たちに関するものだ。
『あ、トイレシートは適度に取り替えているか? そう頻繁に交換する必要はないが、シートのキャパシティを超えないよう、適宜替えてやってくれ。みんなトイレのタイミング違うし、量も違うから面倒だとは思うが、なるべく清潔を保ってやってほしい』
 次から次へと繰り出される質問と忠告の嵐に、プロイセンは段々とげんなりしてきた。
「だからやってるっての。も〜、なんでそんないちいち聞いてくるんだよ、そんなに俺が信用ならないのか? お父さんだって子供たちの面倒みるくらいできるって」
 プロイセンは不服そうに頬を膨らませながらドイツに言った。まあ、普段の生活態度を鑑みればドイツの懸念ももっともなことだし、事実家主がいないのをいいことに好き放題自堕落な生活を送っているのだから、あれこれ心配されるのも仕方ない話なのだが。
「お母さんさあ、ちょっと心配性すぎるんじゃねえ? アスターのやつがお母さん恋しがって家中徘徊してっけど、まあいつものことだからあんま気にすんな。おまえが帰ってこりゃ元気になるからよ。ほかのメンツは至って元気だ。俺とよろしくやってるぜ。だいたい、おまえが留守にするのなんて別にはじめてのことじゃないだろ。いまだってベルリッツと仲良くやってるんだぜ? なんなら写メ撮って送ろうか?」
 プロイセンのささやかな提案は、しかしドイツの現実的な回答によって却下された。
『残念ながら俺の携帯では写真データは受信できない。オプション機能は最低限の契約しかしていないからな。うまくやってくれているならいいんだ。しかし一匹を贔屓しないようにな。ほかの二匹がやきもちを焼く。だが、アスターに対しては少し多めに気を遣ってやってほしい。寂しがりだからな。自分で言うのもなんだが、俺が一日いないだけでもけっこうなストレスなはずだ』
「はいはい。どうせ俺じゃお母さんの代わりはできませんよーだ」
 やや演技がかった調子で拗ねてみせるプロイセンだったが、ドイツはさらりとスルーした。
『あ、それからもうひとつ』
「まだあるのか……お母さんの声聞けるのは嬉しいけどさあ、注文だらけでお父さんちょっと疲れ気味だぜ」
 今度はプロイセンのほうがため息をつく番だった。出張のたびに繰り広げられる恒例行事的なやりとりではあったが、毎回ドイツの心配性ぶりには少々辟易させられていた。家族を案じる彼の声を聞くのは、けっして嫌なものではなかったけれど。
 プロイセンは電話の話し口に手を当てて顔から話すと、両隣できちんとお座りしているブラッキーとベルリッツを交互に見やった。
「よかったなあ、お母さん、おまえたちのことすげえ大事みたいだぜ?」
 彼の言葉に応じるように、二匹はぱたぱたと尻尾を大きく振った。アスターはいまだあちこちうろついては、時折物悲しげな小さな鳴き声を上げていた。


お父さんには荷が重い

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