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思いがけない再会」〜「会える日を信じて」の続きです。(※普と独の話)
内容的に露普なのでここに置きました。





寒さから逃れて


 詰め所の更衣室で平服に着替え、厚手のコートを羽織ったプロイセンは、ポケットに手を突っ込んで寒さにやや背を丸めつつ、徒歩で帰途についた。数百メートル先にあるパネル工法の味気ないアパートの一室が、当面の住まいとして彼に与えられた空間だった。
 自宅の扉の前に立った彼は、月影を頼りに鍵穴を探り、開錠した。ノブを回して扉を開くと、屋外のささやかな光が深く差し込む。引っ越して間もない――なにしろ、この街に戻ってまだ十日程度だ――部屋は殺風景でありながら、同時に、まだ整頓されていない荷物のせいで雑然としてもいた。
 片付け面倒くさいな、と思いながら足を踏み込む。と、そのとき。
「お帰り」
 部屋の中から、彼の帰りを迎える何者かの声が届いた。
「………………!?」
 プロイセンは反射的にすざっと後ずさると、外の通路へ逆戻りし、蝶番をあらん限りの力で軋ませ、ばたんと扉を閉じた。
「……み、見なかった、俺は何も見なかったし、聞かなかった……!」
 扉に両手を突き、腕を突っ張って頭を下げ、ぶるぶると首を振る。
「ははははは……俺ちょっと疲れすぎだろう。幻視と幻聴の二重奏なんてやばすぎるだろうが……。くそっ、少しは休ませろってんだ」
 ひとり毒づいていると、突然扉が内側へ引かれた。手を突いてやや前方に重心を傾けていた彼は、必然的に中に吸い込まれるようなかっこうになる。
「おわっ!?――っとと」
 そのまま前に転倒するかと思いきや、何か弾力のあるものに体を受け止められ、床との衝突は避けられた。
 プロイセンはほっと息をついたのも束の間、まだ自力で体を支えきれていないにもかかわらず、倒れることなくなんとかバランスを保てているこの状況はいったいどういうことなのだろうと、いぶかしく思った。思った途端、嫌な予想に背筋を凍らせた。
「大丈夫?」
 上から降ってくる声。先ほど彼を出迎えたのと同じ声質だ。聞き覚えは――残念ながら、ある。
 プロイセンは、倒れないよう腹から胸に掛けてを支持している自分のものではない腕にとっさに掴まりながら、固まっている。
「どうしたの、早く入りなよ、寒いでしょう」
「ひっ!」
 プロイセンの部屋から我が物顔で出てきたのは、予想通り、ロシアだった。彼はプロイセンの体を抱きとめながら、パタンとドアを閉め、電灯を点けた。そして、相手の顔に素手を触れさせる。
「すっかり冷えてるじゃない」
「な、なんでおまえが……」
「うん? 野暮用」
 ロシアはにっこり微笑むと、プロイセンから見て右手に当たる壁にピンと伸ばした人差し指を向けた。プロイセンはつられてそちらに視線を向けると、
「……うわっ、なんだこれ!?」
 素っ頓狂な悲鳴を上げ、思わず一歩後退する。意図せずロシアの腕から抜け、距離を取る結果になったのはまあよかったのだが……目下注意を払うべきはそんなことではなかった。
 人工灯に照らされた室内で彼が視線をやった先には、壁の三分の一ほどを覆う赤が広がっていた。長方形に裁断された、上質そうな赤の布地。四つある角の一端には、すでに見慣れて久しいお馴染みのシンボルが刺繍されている。
 五芒星に、槌と鎌のクロス。
 それが表すものといったら、ひとつしかない。
 なんでこの部屋にこんなものが。
 プロイセンは口をぱくぱくさせながら、壁際の天井からつるされた旗を、ちょっと曲がった人差し指で指している。
 その傍らで、ロシアが説明をしてきた。
「お土産。うちの上司から。我らが同志に、ってさ」
「土産って……」
 プロイセンはコメントに窮してうなった。いきなり贈られてこれほど迷惑かつ恐ろしいプレゼントもそうそうないだろう。しかし立場上、壁から剥ぎ取るわけにもいかず、彼は額を押さえながらなんとか言葉を絞り出した。
「あのよ……壁が赤いと落ち着かねえんだけど」
「そのうち慣れるよ」
 何の解決にもならない答えを返すロシア。要するに、飾っておけということか。プロイセンはため息をついた。が、ロシアが付け加えてきた。
「それね、きみにあげたんだからきみの好きにしていいけど……ま、悪いことは言わないからさ、そのままにしておくのが無難だよ。いまのきみの上司はそういうの好きだからね、保険くらいにはなるかもよ」
 自己の正当化なのか、一応プロイセンの立ち位置を考慮しているのか。ロシアはわざと曖昧に、ふふ、と笑った。
「いつからいたんだ?」
「日暮れくらい。日が落ちるとずいぶん冷えるね」
 ロシアは室内でもきっちり防寒具を身につけている。マフラーは気温とは関係なく巻いているが、今日は心持ち、いつもよりきつく締めているように見えた。
 プロイセンもまた、手袋もマフラーも外さないままだ。
「悪いな、暖房器具はあるが燃料がないんだ。にしても、明かりくらい点けりゃよかったのに」
「サプライズをしてみたくてね」
「サプライズにもほどがあるぜ……。まったく、土産置くためだけにわざわざこんなとこまでご足労くださったってわけか?」
「仕事のついでだよ。こっちはずいぶん環境が変わったからね、きみが戸惑ってるんじゃないかと思って」
「ご心配いただきましてどーも。けど、いまや向こうもこっちもたいして変わんねえよ。……どっちもおまえのものみてえなもんだろ」
 プロイセンは壁に近づくと、上からつるされた赤い旗に手を触れさせた。こちらに戻ってもなお、この色とシンボルとは縁が切れないようだ。わかっていたが、やるせない。
 椅子に腰掛けてテーブルに頬杖をついたロシアは、国旗の前でうつむき加減に立ち尽くしているプロイセンの後ろ姿を眺めた。しばらく何も言わないでいたが、いつまで経っても沈黙が破れそうになかったので、ロシアは唐突に話題を振った。
「もうちょっと――」
 急に話しかけられ、プロイセンがぴくんと肩を動かした。振り返った彼と目が合ってから、ロシアは続けた。
「もうちょっとお話しててもよかったのに。久しぶりの再会だったんでしょう? 水を差すほど僕は野暮じゃないよ」
 主題は明確化されなかったが、ロシアが何について話しているのかは、確認するまでもなく理解できた。プロイセンは湯を沸かす準備をするためにキッチンに移動しながら答えた。
「いいさ。どうせこれからお隣さんやるんだしな」
「わざわざ時間外労働してまでこっそり見に行っちゃうくらい、彼のこと気にしてたくせに」
「それでうっかり捕まってりゃ世話ないけどな。ははは、どっちが警官なんだか」
 ドイツに会って話したことを隠すつもりはないし、隠せるとも思っていないので、あっさりと白状する。別に後ろめたいことはしていない。そう思いつつ、トレイに伏せたマグカップを取ろうとしたとき、指が外れそうになった。緊張しているわけじゃない、寒さのせいだ、と彼は自分に弁明した。
「彼に気づかれたの、わざとなんでしょう?」
 疑問文でありながら断定的に聞いてくるロシアに、プロイセンはなるべく自然な動作で肩をすくめて見せた。
「勘繰るな。誰かさんたちに酷使されてるせいで疲労気味なんだよ。注意力も落ちるさ」
「うん、僕も疲れ気味だよ。上司が国遣い荒いとつらいね」
「まったくだ。ってか、おまえも忙しいんだったら早くうちに戻れよ。仕事が待ってるんだろーが。それにおまえんとこ同居人多いんだし、心配してるんじゃねえ? ベラルーシとかリトアニアとか。特にベラルーシ。女待たせるんじゃねえよ。男が廃るぞ。早く帰って元気な姿見せてやれ」
 プロイセンのお節介くさい言い分に、ロシアは拍子抜けするほど素直にうなずいた。
「うん、明日には発つよ」
 プロイセンは水場に顔を向け、こっそりと、しかしあからさまに安堵の息をついた。しかし、それも一瞬のことだった。ロシアが付け加えてくる。
「だから、今日は泊めてね。食事は期待してないから気を遣わなくていいよ。それから、見送りよろしく」
 有無を言わせず注文を述べるロシア。説得の材料がうまいこと思い当たらないプロイセンは、仕方なく首を縦に振った。
「……わかったよ」
「ありがとう」
 礼を言われたので、プロイセンは一応片手を上げて答えた。図々しいとか厚かましいとかいった感想は、口の中だけに留めておく。どのみち本人に言ったところで通用しないだろうし。
 湯が沸くのを待っていると、ロシアが隣に寄ってきた。プロイセンは邪魔そうに眉をしかめた。
「……なんだよ。わかったっつったろ」
「火の気が恋しいだけだよ。ここは寒いから」
 ロシアは手袋を取った両手を火の元にかざした。指の関節は赤く、爪の付け根は紫がかっていた。
「そーだな」
 プロイセンもまた、彼に倣って暖を取ろうと火の近くに手をやった。蒼白な指先に熱が移ってくると、じんじんとしびれ出した。


あたたかい場所

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